マックス爺のエッセイ風日記

2014/04/11(金)08:53

歩いて博物館へ(1)

生活雑記(1036)

≪ 歴史とお散歩編 ≫  3月末の土曜日、私は妻と博物園へ行った。バスを使えば遠回りになるし、お金もかかる。博物館までは最短距離で3kmちょっと。この間はずっと山道だが、歩けば良い運動になるだろう。こうしてこの日もてくてく歩くことにした。長い長い登り坂。地下鉄の工事はかなり進んでいるみたい。動物公園からは下り坂。竜の口の吊橋を渡って青葉城の天守台へと向かう。  ちょっと見難いけど、これが青葉城(仙台城)の図面。城の南側と西側は高さ50mほどの断崖絶壁になっている。だから難攻不落のこの城に、わざわざ天守閣を設ける必要はなかったのだ。天守閣の代わりに設けられたのが書院造りの大広間。同じような城は兵庫県篠山市の篠山城などがそうだ。何年か前、この大広間があった場所を発掘調査していたことがある。石垣も最初のものから始まり三重になっていたことが分かった。順次城域を広げたのだ。          これが仙台藩祖、伊達政宗の騎馬像。伊達氏は鎌倉時代は茨城県北部が本拠の地頭。後に一族の一部が東北地方に移り、戦国時代になってからは会津若松(福島県)、米沢(山形県)、岩出山(宮城県)と所領を変えた。大崎地方を平定した後、城を築いたのが当時は千代(せんだい)と呼ばれていた現在の仙台だ。最大の版図は福島県から岩手県南部までの広大な地。だが関ヶ原の戦いが終わると、家康から与えられた石高は62万石だった。  東北の雄である政宗が62万石で満足する訳がない。そこで彼は所領内の沼地や荒れ地を開拓し、実質100万石以上の収入を上げたのだ。「一国一城令」で城は1つしか置けないはずなのに、伊達と阿波の蜂須賀だけは例外で、領内に複数の城を築くことが許されていた。それだけで満足せず、政宗は遠くスペインに遣いを送り、密かに通商を試みた。この野望は失敗するが、支倉常長を団長として派遣されたのが「遣欧使節団」である。  4月1日の新聞を開いたら、この政宗の騎馬像が台座から消えている写真が載っていた。「あれ~っ、3日前に見たばかりなのに変だなあ?」と不思議がっていたら、何とこれがエイプリルフール。つまり新聞社が読者をかついだ訳だ。  天守台から眺めた仙台市内の様子である。人口は107万人ちょっとだが、東北で人口が増え続いている数少ない都市だ。市域は東は太平洋から、西は1500mもの山々が連なる奥羽山脈までと広く、隣県の山形と接している。           50年以上前、つまり私がまだ高校生だった頃の仙台市内には、5階建て以上のビルは10にも満たなかった。だが現在では高層ビルが立ち並ぶ近代都市に変身している。戦後の焼け跡や舗装もされていない石ころだらけの道路を思うと、昔日の感がある。  手前が城。その下を流れるのが広瀬川。この断崖と曲がりくねった川に囲まれた青葉城は、天然の要塞だったのだ。                                ついでに市内を見下ろす愚妻の姿を載せておこう。  こちらは仙台城三の丸にある仙台市博物館の裏手に鎮座する伊達政宗の胸像。三日月形の前立て(兜の飾り)が立派。幼時に罹った天然痘の影響で片目が不自由だった政宗は、「独眼竜」と呼ばれて恐れられた武将。だが、遺言により、死後寺社に納めた像には両目を入れた由。この青銅製のものは勿論、生前の独眼竜のまま。            この後私達は博物館で特別展を観覧したのだが、それは明日紹介することにし、今は散歩を続けたい。これは三の丸の石垣の一部。現在は博物館の入口になっている。          こちらは五色沼。青葉城内の池から流れ出した水がここに集まり、三の丸の濠の一部となっている。水の色は青く、それが沼の名前になった。明治時代、我が国最初のアイススケートがこの沼で試された。勿論沼が凍る冬季のことだ。今ではそんな歴史を知らないように、すっかり風景が静まっている。  沼の横から坂道を登って脇櫓(きややぐら)の方に向かう。その土手に咲いていた紅梅。3月末でもまだ2分咲き程度。急速に気温が上がって一挙に春が来たのは、それからまだ数日後のことだ。                    これは大手門の横、二の丸(現在は東北大学の構内)跡に立つ支倉常長の銅像。彼が政宗の命により、現在のメキシコを経てスペインとローマへ渡ったその人。残念ながら力が衰えたスペイン王は、政宗と通商を結ぶことはなかった。また、常長が帰国した時は既にキリシタン禁止令が出され、キリスト教に改宗した彼は、藩の手によって山村に幽閉され、一生をそこで過ごした。  彼がヨーロッパからもたらした品物の大半は仙台市博物館に保管されて3点が国宝になり、世界記憶遺産に指定されている。またバラや十字架の意匠は同じくキリシタンだった政宗の長女五郎八(いろは)姫の菩提寺である、松島の天麟院の姫を祀る厨子の内部に、密かに写されている。今では数奇な運命に弄ばれた彼らのことを知る人も少ないが、昨年が遣欧使節がヨーロッパに送られてからちょうど400年目に当たっている。<続く>

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