2014/06/18(水)05:49
奥の細道海の旅I ~塩竃から松島まで~(2)
5月31日日曜日。「第10回みちのくラン」で、私達は仙台市内を走った後電車で塩竃に移動して塩竃神社に参拝し、港から遊覧船に乗って松島へ向かった。
私達が乗ったのは、赤い線の「島めぐり芭蕉コース」だが、「奥の細道」で芭蕉と弟子の曽良が乗った小舟は、もっと海岸に近い黒の線に沿ったものだったのではないか。
この日は曇りだったためあまり海の色は冴えないのだが、次々に現れる小島の姿を私達は楽しんでいた。
これは「仁王島」と呼ばれる小島。首の辺りをセメントで補強してある。松島の島々は砂岩、礫岩、凝灰岩など非常にもろい岩質で出来ていて、波や風による浸食を受け易いのだ。
多分この島の名は「鐘島」だったはず。そう言えば、鐘の形に見えなくもない。
大抵の島には松が生い茂っているのだが、中にはこんな風に松が枯れてしまった島もある。
波の浸食で4つも穴が開いた島。ふ~む絶景、絶景♪
松島湾には大小260もの島が点在している。そのうち有人の島はわずか4つだけだ。
松島湾はとても浅く、水深は10m以下なのだとか。
松島丘陵の東端が溺れ谷となって海水が入り込み、山頂が島となって残ったのが松島だと言われている。
松島は「日本三景」の一つ。他の2つは丹後の「天橋立」と「安芸の宮島」である。
島の名は「兜(かぶと)島」。果たして兜に見えるだろうか。
「奥の細道」で芭蕉は、「松島は笑ふ如く、象潟はうらむがごとし」と記している。芭蕉と曽良が松島を訪れたのは新暦の6月27日。太平洋岸の松島は太陽が出て明るかったのだろう。それに対して新暦の8月2日に訪れた秋田の象潟(きさがた)では雨が降っていたようだ。一行が訪れた当時の象潟はまだ浅海に浮かぶ島だったが、その後の地震で、今は「陸上の島」になっている。
「東日本大震災」の大津波はまだ記憶に新しいが、塩竃市の海岸部では大きな被害があったのに対し、松島町の海岸部はほとんど被害がなかった。その理由は、湾に浮かぶ大小の島々が津波の衝撃を緩和したためだ。だが有人の島では被害が起き、今でもその影響が残っている。
こちらも先程の「兜島」に良く似ている。波の浸食の激しさを物語る島の形だ。
松島湾遊覧船巡航時間は約1時間。私達のマラニックはまだ続く。
芭蕉と曽良の2人も、小舟の上から同じ景色を見たに違いない。彼らの旅は元禄2年のこと。今から325年前の旧暦5月9日(新暦だと6月27日)であった。<続く>