カテゴリ:考古学・日本古代史
6月下旬のある日、私は妻と「多賀城跡あやめ園」へ行った。咲き誇る300万本ものアヤメを見るためだった。500種類ほどのアヤメはさすがに見応えがあった。そして、その後に訪れたのが国府多賀城だった。
ここは大宰府と並ぶ、古代日本の政庁。大宰府が九州の鎮護と大陸や朝鮮半島への備えであるのに対し、多賀城は東北の蝦夷(えみし)に対する備えであり、北辺の政治の中心地であった。 ![]() これが国府多賀城の中心となる政庁が置かれた丘の全景。蝦夷の襲撃に備えるため、丘全体が柵や塀で囲まれていたのだ。 ![]() <参考資料1:政庁復元模型> 多賀城は神亀元年(724年)大野東人によって創建され、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国府が置かれたところ。奈良時代には蝦夷に対する備えとして鎮守府の機能も兼ねていた。これはその中心となる政庁の復元模型。11世紀半ばに終焉を迎えるまで、古代東北地方の政治、軍事の中心地としての役割を果たした。 ![]() <参考資料2:東山道官道駅家図> 古代東北に置かれた陸奥国(後に出羽国が分離)には、東山道から続く広い官道が敷かれ、約18kmごとに駅家が置かれた。官道は都から人や文化を運び、朝廷の命令を伝えた。蝦夷を征伐しながら官道は北へと延びて行き、逆にこの道を通って東北の産物が徴税として都へと運ばれたのである。多賀城はまさに開拓と中央国家の前進基地だった。 ![]() <参考資料3:国府多賀城及び街路図> 中央の丘の頂上には政庁が置かれ、これを防御するため丘を取り囲むように柵や塀が張り巡らされていた。多賀城で執務する官人の私邸は城の外部にあり、地形に沿って街路が整備されていた。この城を東に向かえば多賀城を守る奥州一宮である塩竃神社があり、塩竃の港があった。また南側を流れる冠川(現在の七北田川)は、川幅を広げ多賀城まで舟による運送が可能だった。陸路だけでなく海路も重要な交通手段だったのだ。 ![]() 第87次多賀城発掘調査の案内図である。ここでは戦前から継続して発掘調査が行われ、その都度調査報告書が発行されている。これまでの調査結果によって、多賀城の創立時期や機能、規模、官人の暮らしぶりなどが解明されている。 ![]() 多賀城南門付近の発掘現場1 ![]() 多賀城南門付近の発掘現場2 ![]() <参考資料4:多賀城南門復元図> これは当時の南門の復元想定図。今回は単なる発掘調査と異なり、この南門を復元再建するためのものである。 ![]() 政庁への石段登り口の発掘現場 ![]() <参考資料5:これまでに発掘された人面壺1> ![]() <参考資料6:同人面壺2> ![]() <参考資料7:発掘された漆紙文書> 壺の中の漆が乾燥しないよう、使用済みの紙でふたをしたもの。その紙に漆がしみ込んだため、後世まで残った。発掘当時は我が国で最も古い漆紙文書だったが、その後他県でさらに古いものが発掘されたと記憶している。 ![]() 壺の碑(つぼのいしぶみ)。多賀城創建の由来や、再建修復の由来を刻んでいる。歌枕としても有名で、芭蕉もここを訪れている。土中からこの石碑が発見されたのは江戸時代。古い文献に載ってないことや、使用されない文字があることから、長らく偽物だと考えられて来た。その後の研究により、当時の中国の様式に従って製作されたものであることが判明。天平宝字6年(762年)12月1日に創建。 ![]() <参考資料8:壺の碑の拓本> 多賀城創建の由来の他、平城京から多賀城までの距離、他国(外国も含む)からの距離などが刻まれている。高さ248cm、最大幅103cmの花崗岩質砂岩で出来ている。多賀城南門付近に西を向いて立てられており、国の重要文化財に指定。石碑を保護するため、現在は覆屋の中にあり、直接手を触れることは出来ない。当時の史料には全く出ておらず、多賀城と古代東北の解明のため重要な手掛かりとなる歴史資料。 ![]() 「史跡国府多賀城」標識。政庁への石段横に立つ。 ![]() 南門から政庁へ向かう石段。ここから政庁の華麗な建物を見上げた蝦夷は中央国家の威厳を感じ、恐らくは威圧されたに違いない。 ![]() 同石段上部。 <明日に続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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