カテゴリ:考古学・日本古代史
<ジグザグの古代史探訪>
橘寺の境内にて ![]() 自転車で明日香村を訪ねる旅は観光地図を見ながらなので、歴史の順番通りとは行かない。道もそうだが歴史の順番もジグザグだ。7つ目の訪問先は橘寺。聖徳太子が建立した7つの寺の1つで、父である第31代用明天皇の別宮を寺に改築したと伝えられている。寺の名は、不老長寿の果物と信じられていた橘の実を植えたことに因む。 ![]() ![]() 聖徳太子はこの地で誕生した由。彼にとっても思い出深い地だったのだろう。寺の直ぐ傍に、「聖徳太子御誕生所」の石碑が立っていた。ただし聖徳太子の名で呼ばれたのは、彼の死後のことだ。 ![]() ![]() 境内の一角に馬の像があった。これは太子の別名「厩戸皇子」(うまやどのおうじ)に由来するのだろうか。祀られているご本尊は、太子が35歳時の座像と伝えられている。 橘寺境内 ![]() 秋の日差しを浴びる境内は静寂そのものだった。天皇の子でありながら皇太子(摂政)のまま生涯を終えた太子。その太子に4人の妃がいることを、今回初めて知った。彼は有力な豪族である蘇我氏の血を引き、妃も蘇我氏の出自だとばかり思っていたのだがそうではなく、国宝「天寿国曼荼羅繍帳」(法隆寺蔵)を作らせた橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)も妃の一人で皇族だった。 ![]() 8つ目の訪問先は「石舞台古墳」。その巨大さは傍に立つ人と比べたら良く分かるだろう。この古墳は蘇我馬子の墓と言われている。大化の改新により彼の孫である蘇我入鹿は中臣鎌子(藤原鎌足)らに暗殺され、彼の子である蘇我蝦夷は自殺した。そのため祖父馬子も反逆者の一族として墓を暴かれたのだろう。元々は土で覆われていたはず。その土を剥ぎ取られ、石室は露わになり、石棺まで破壊された。古代日本最大の豪族蘇我氏は、こうして歴史から消えて行った。 石室内部 ![]() ![]() 石室内から外部を見た図。写っているのは妻だが、これで古墳の巨大さが分かるだろう。巨大な花崗岩は付近の多武峰(とうのみね)から切り出され、運ばれたもの。蘇我氏は天皇家にも劣らぬ権力を振るい、聖徳太子の妃の一人である刀自古郎女(とじこのいらつめ)は馬子の娘であった。 復元された石棺 ![]() ![]() 655年に皇極天皇が斉明天皇として重祚(ちょうそ=同じ人が2度天皇になること)し、板蓋宮(いたぶきのみや)で即位した。板蓋は瓦葺きでない粗末な宮殿だとばかり思っていたのだが、当時の家屋は草葺き、わら葺き、茅葺き(かやぶき)、檜皮葺き(ひはだぶき)が一般的で、製材製板の技術が遅れていた当時としては最先端のもので、瓦は寺院だけで用いる貴重品だった由。 板蓋宮跡 ![]() ここ板蓋宮跡が私達の9番目の訪問先になった。規模としてはかなり小さな宮殿だったのだろう。 ![]() 真ん中の方形の囲いは井戸の跡だろうか。 飛鳥寺裏門 ![]() 10番目の訪問先は飛鳥寺。当時は法興寺、元興寺(がんごうじ)と呼ばれ、飛鳥寺は別称。平城京遷都の際は元興寺も奈良へ移った。飛鳥寺は596年に蘇我馬子が建立した日本最古の寺で、蘇我氏の氏寺。崇仏派の蘇我氏は排仏派の物部氏と戦って勝利し、それ以降仏教は国の中心思想として重要視される。現在の正式な名称は安居院。 ![]() ![]() 本尊の飛鳥大仏(釈迦如来像)は製造年代の分かる現存の仏像としては我が国最古のもの。百済からの渡来人が605年に造り始め、翌年に完成した。火災に因る損傷の跡が残されている。 ![]() ![]() 寺の秘仏(左)と入鹿首塚(右) 大化の改新(乙巳の変=い(お)っしのへん、645年)により、大臣であった蘇我入鹿は暗殺され、斬首された。その首は、祖父の馬子が建てたこの寺の傍らに葬られた。政変の後、一族の蘇我倉山田石川麻呂が大臣となったが、古代豪族蘇我氏がそれ以降歴史の表舞台に立つことはなかった。 飛鳥時代はわずか100年余りの短い時代だが、その間遣隋使の派遣、朝鮮半島への遠征、大化の改新の政変などの歴史的な大事件が次々に起き、国際的な競争に打ち勝つべく律令国家体制を急速に整えた慌ただしい時代でもあった。 ![]() この日の昼食は、奈良の名物である「柿の葉寿司」を、明日香村で食べた。<続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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