2015/11/20(金)08:22
1冊の地図を持って(4)
東大崎駅で列車から降りる。駅前の看板に、何か案内があるはず。そう思って近づくとそれは掲示板で、大崎市や集落内のお知らせが張ってあるだけだった。作業中の人達がいたので道を聞こうとすると、この辺の住人ではない由。そこで意を決して歩き出した。頭の中に地図がある。それを信じて訪ねてみよう。北に向かって歩き出し、最初の角から左折して陸羽東線の踏切を渡った。傍に大きな柿の木があり、燦々と晩秋の日を浴びていた。
一軒の家を訪ねてインターフォンを押す。暫くして老婦が家の中から出て来て、玄関の鍵を開けた。かなりの用心ぶり。きっと一人暮らしなのだろう。「名生館(みょうだて)遺跡」の場所を尋ねると、「何もないよ」と一言。それでも怪しい人物ではないと思ったのか、外へ出て遺跡までの道を教えてくれた。5つ目の電信柱の所から右折し、小道を暫く行くとその突き当たりにあるらしい。礼を言って歩き出す。
確かに5本目の電信柱の右に小道があった。そこを曲がると遥か遠くに山の姿。これは栗駒山だろうか。山の形が違うような気もするが。
遠くに石碑が見えた。きっとあれに違いない。そう思って近づくと、それは農道を整備した際の記念碑。あらら違ったか。改めて周囲を見ると、案内の標識を見つけた。私が探していたのはこれだった。さらにぬかるんだ小道を行くと、資材置場のような空き地があり、その向こうに広々とした農地が広がっていた。
道を尋ねた老婦が、「何もないよ」と言った訳が分かった。200mほど先の畑で、農婦が白菜を収穫しているのが見えた。この何もない地が長年探していた遺跡。傍に大きな看板があった。それを幾つかに分解してデジカメで撮る。
これが遺跡の説明。かなり詳しく書いてある。陸奥国府である多賀城の創建(神亀元年=724年)以前に建物が建てられ、律令支配がこの地に及んでいたようだ。きっと郡山官が(仙台市太白区)に初期の国府が置かれた時代なのだろう。
昭和55年(1980年)から始まった発掘調査の結果、板塀に囲まれた敷地に東西53m、南北61mの瓦葺の正殿と2棟の脇殿などがあったことが判明した。これは発掘調査の結果を基にして作成された建物配置図。
そしてこれが建物の想定図。奈良時代、瓦を用いることが出来たのは、大きな寺院か国の出先機関くらいしかない。それほど瓦は貴重な存在だったのだ。
これが屋根を覆っていた軒平(のきひら)瓦。屋根の先端なので、飾りが施してある。
そしてこれが軒平瓦を抑える軒丸瓦。同じく先端部のため、美しい蓮華紋がある。恐らくそれほど遠くない場所に、この瓦を焼いた窯(かま)があったはずだ。
底に「玉厨」と書かれた土器。これらは「墨書(ぼくしょ)土器」と呼ばれる貴重な資料。このことで、この建物が玉造郡の郡が(「が」は「行」の間に「吾」の字、建物の意味)であり、土器がその厨(くりや=台所)で使用されたものと推定することが出来るのだ。
農地を目前に、私はお握り、お菓子、ミカンを食べた。私の目の前に広がっているのは農地ではなく、奈良時代の玉造郡役所。きっと目新しい建物の姿は蝦夷にとって驚異であり、畏敬だったに違いない。遥か遠い大和朝廷の威光が、この陸奥にまで及んだ証だから。あの微高地がきっと正殿があった場所。私の頭の中では、当時の華やかな姿が見えていたのだ。
30分ほど遺跡に居てから農道を戻った。電信柱のある道路まで来ると、遠くに山が見えた。左側に見なれた小山。あれはきっと七つ森。もしそうだとすると隣は泉ケ岳と北泉ケ岳か。そしてそれに連なるのが船形山だろう。そうか、朝は気付かなかったけど、仙台から見える風景を裏側からだとこんな風に見えてるんだ。ウルトラマラソン仲間の古川組は、いつもこんな風景を見ていたんだねえ。
そして右の岡の上には、ちょこんと薬莱山の頂上が。あそこが毎年8月に走る、宮城UMC練習会のゴール地点。真夏の55kmは厳しいものがあった。そして私は古川駅からあの山麓を通り、鍋越トンネルを抜けて、山形県の大石田町まで走ろうと計画したことがあった。その後病気になって、もう70kmを走るのは文字通り夢になってしまったが。
駅に戻ると、道を尋ねた老婦の家が見えた。小母さんどうもありがとうね。心の中でつぶやく。小母さんは「何もない」と言ったけど、私には十分満足出来る収穫があったんだよ。
何しろ無人駅からワンマンカーに乗るのは初めてのこと。証明用の切符を取る余裕がなかった。次の「西古川」で、ようやく切符を取った。これを小牛田で乗り換えた東北本線の車掌に見せ、正式の切符を発行してもらった。
帰宅後の夕食時、私は岩出山で買った「シソ巻き」をつまみに、「森泉」の原酒を飲んだ。馥郁とした日本酒が、胃に沁みた。久しぶりのシソ巻きは、懐かしい郷土の味だ。結局リュックに入れた「21世紀版みやぎ地図百科」、つまり地図帳は最後まで使うことなく終わった。それは親切に道を教えてくれた人や、分かり易い地図をくれた人がいた証でもあったのだ。こうして私のささやかな旅は終わった。それでも紹介していない写真が、まだたくさん残っている。<完>