カテゴリ:日本史全般
<1枚のパンフレットから探る2つの藩の歴史>
11月23日。私は仙台市博物館で開催中の特別展「宇和島伊達家の名宝」を観ました。パンフレットには「政宗長男・秀宗からはじまる西国の伊達」と副題がついています。愛媛県宇和島市に、もう一つの伊達家があったのです。特別展の会場内は当然撮影禁止です。そこで今日はもらったパンフレットから写真を借用し、仙台、宇和島2つの伊達家の歴史を振り返ってみましょう。 <秀宗童体装束> 桃山時代の幼児用狩衣と袴。 秀宗は伊達政宗の長男として戦国時代に現在の宮城県村田町にあった村田城で生まれた。母は側室で飯坂氏の娘であった。 <伊達政宗甲冑椅像> 松島瑞巌寺所蔵 慶安5年(1652年)作 宮城県文化財指定。 父政宗は戦国時代の武将で、62万石の仙台藩祖。家来の支倉常長をヨーロッパに派遣するなど、江戸時代に入ってからも野望を持つ英雄だった。 <「青山」銘の琵琶> 桃山時代の作で政宗の正室だった愛姫愛用のものと伝わる。 愛(めご)姫は田村氏の出。2人の間には長らく子がなく、政宗35歳、愛姫34歳の時にようやく嫡男虎菊丸が誕生した。 <伏見御殿屏風(花鳥図)>の一部 桃山時代。 話は遡って、政宗の長男として生まれた秀宗は幼くして秀吉の人質となり、後に猶子となる。やがて誕生した秀頼の小姓として仕え「秀」の一字をもらった。 <上記屏風絵の一部> 秀吉亡き後、関ヶ原の戦いが勃発。この時秀宗は、西軍に加担した五大老の1人である宇喜多氏の人質となった。 <上記屏風絵の一部> 関ヶ原の戦いの後、秀宗は覇者となった徳川家康の人質として差し出された。これは当時の武将の子供の宿命でもあった。 <上記屏風絵の一部> 大坂冬の陣には父政宗と共に参陣。これが彼の初陣だった。 <豊臣秀吉画像> 慶長4年(1599年)狩野光信筆 重要文化財 やがてこの後、政宗に嫡男が誕生する。政宗は秀宗の扱いを家康に伺った。彼はかつて秀吉の猶子(養子のようなもの)であったためだ。家康は秀宗を、関ヶ原の戦いの報償として政宗に与えた宇和島10万石の城主とすることを許す。これが宇和島伊達家の誕生秘話であった。一方、嫡男の虎菊丸は元服後忠宗と名乗り、第二代仙台藩主となる。 <宇和島御城下絵図> 元禄16年(1703年)作 政宗は秀宗のお国入りに際し、自身の家臣を秀宗に与えた。1200人の家臣団のうち、2割が政宗の家臣だった由。さらに支度金として6万両を貸与した。宇和島城は海城で、濠は海水だった。現在は地続きとなり、小さな櫓が天守閣代わりに残っている。 <香木> 銘柴舟 政宗が秀宗に与えたもの だが、政宗が家老として帯同させた山家(やんべ)氏一家が、何者かによって暗殺される。秀宗はこのことを政宗に知らせなかった。政宗は激怒し、困り果てた秀宗は山家氏を祀る和霊神社を建立した。これが今でも和霊祭として続いている。また鹿踊りなど東北の祭が伝わっている。 <黒塗御紋散梅に竹文蒔絵香道具> 江戸時代中期 仙台藩と宇和島藩には、それ以降も幾つかの確執があった。6万両の貸与の件や、仙台藩の分家ではないとの主張も宇和島藩内で起きた。だが両藩両家の交流は続き、血筋が絶えた際は養子となって幕末まで継いだ。 <指面> 第3代仙台藩主綱宗作 江戸時代中期 仙台藩においてもお家騒動が起きた。3代藩主であった綱宗は若くして藩政を怠り、芸能などに溺れた文化人。藩の危機と感じた家臣は、綱宗の隠居を幕府に願い出た。これが許されて、幼い第4代の藩主が誕生する。この補佐役だった原田甲斐らがこの機に権力を延ばそうと画策する。これが世間を騒がせたお家騒動となって原田甲斐らは断罪される。いわゆる「千代萩」として戯曲化された事件がこれだった。 <花菱月丸扇紋散蒔絵三棚> 安政3年(1856年)佳姫婚礼時所用品 幕末には宇和島藩の血筋が絶えた。この時に第8代藩主となったのが旗本吉田家から入った宗城公。英明な彼は西洋文化を取り入れ、西洋医学を学んだ医者を藩内に置いたり、蒸気機関を製作させたりした。やがて戊辰戦争が勃発すると、宇和島藩は官軍に就いた。 一方の仙台藩は奥羽越列藩同盟の旗頭として幕府側に就いた。結果はご存知の通りで、朝敵となった東北各藩は、明治に入っても長らく冷や飯を食う立場に置かれたのだ。 <伏見御殿屏風図(唐人図)> 桃山時代 明治後期、明治維新の際に功労があった宇和島伊達家は侯爵となるが、仙台伊達家は伯爵のままに置かれた。爵位が逆転したのだ。かつての「本家」の土地と「分家」の土地が「和解」したのは昭和50年(1975年)。仙台市と宇和島市は「歴史姉妹都市」を締結した。今年は40周年に当たり、記念事業としてこの特別展が開催されたのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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