カテゴリ:考古学・日本古代史
<縄文人の暮らし>
![]() ![]() これが是川縄文館(これかわじょうもんかん)の建物で、青森県八戸市の郊外にあります。 ![]() この地区の航空写真です。里山の麓に、3つの遺跡が引っ付きあっています。当時は割と近くまで海が迫っていたと思われます。 ![]() 遺跡の説明板です。それぞれの時代で、縄文人は住む場所を変えていたようです。長い年月の間に、少しずつ生活のパターンが変化して行ったのでしょうか。 ![]() 中居遺跡の樹相を図式化したものです。彼らは住居付近に、数種類の木を使用目的別に植えていたことが分かりました。漆(ウルシ)も自然のものを採ってた訳じゃないんですねえ!! ![]() これは当時の「ゴミ捨て場」の発掘状況です。三内丸山遺跡もそうですが、このゴミ捨て場から、貴重な遺物がたくさん発掘されています。腐敗せずに残ったのは、恐らく地下水のため空気に曝されずに済んだのが原因と思われます。 ![]() これは斧の柄です。しっかりした形がそのまま残っています。 ![]() これは長さが3mもある太い柱です。恐らくは掘っ立て小屋を支えていたものの1本でしょう。 ![]() クジラの背骨です。重量があるクジラを運ぶのは、たとえ切り裂いたとしても容易ではありません。恐らく海が近くまで来ていたと考えられる理由はこのためです。気候が温暖だった時期は、海の氷が解けて海水が増し、海岸線が現在よりも奥まっていました。これがいわゆる「縄文海進」です。 ![]() 別館(縄文学習館)が建っている風張遺跡の発掘状況ですが、それほど広くはありません。またここに建っていた小屋の数もそれほど多くはなかったことが分かっています。 ![]() 縄文人の集落を再現したジオラマです。家のすぐ傍に「栽培林」があります。 ![]() こちらは発掘調査結果に基づいて復元された小屋の様子です。小屋の形にも色んなパターンがあったようです。 ![]() 縄文人の服装です。衣服の材料も様々でした。また装飾品も豊富で、意外なことに弥生時代よりもむしろファッション性に優れていたと考えられています。 ![]() 発掘結果に基づいて再現された縄文人の「かまど」です。当時としては最先端のキッチンで、ハンバーグやクッキーなどを焼き、各種のスープを作って食べていたことも分かっています。食料が豊富だった縄文時代の東北は、国内でも最大の人口密集地でした。 ![]() 集落の傍には良く管理された林があり、その木を材料に使って様々な道具を作っていました。また栗やエゴマなど数種類の食料を栽培していたことも判明しています。縄文時代はこれまで考えられて来たような、単純な採集生活ではなかったのです。 ![]() 鋭い刃物を作る黒曜石、接着剤として用いるアスファルト、装身具原料のヒスイなどは、海や川を通じてかなり遠くから運ばれて来ています。その交流範囲の広さにも驚かされます。明日からは是川遺跡から発掘された見事な土器、土偶、漆製品などを順次紹介しますね♪ ![]() ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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