マックス爺のエッセイ風日記

2018/09/22(土)06:39

ボンヤリとした視界で

生活雑記(1036)

~わが日常~     朝起きて直ぐインゲンを収穫。モロッコインゲンと違った普通のインゲンを、仙台では「ササゲ」と呼ぶ。台風で摺れたのか表面が汚いが、自分が食べる分には何も困らない。雲南百薬を茹でて「お浸し」を作り、ニンジン、セロリ、茹でたモロッコインゲン、トマト、キュウリを刻んでサラダを作る。自家製と見切り品の野菜、そして必ず食べる果物の食物繊維で便秘に悩むことはない。             先日行った歯科医では定期的な「歯石」の除去と歯のホワイトニング。そして部分入れ歯の2度目の調整も。これで咀嚼時の痛みが和らいだ。昨日は歩いて眼科に向かいながら、ブログ用の写真を撮る。目は霞み、耳は遠くなり、歯はガタガタ。もう感覚器官としての「使用期限」を超えたのだろうが、それでも何とか頑張って生きている昨今。こうしたウォーキングも、運動不足の身には持って来いだ。     眼科ではいつもの眼圧測定。これは眼に直接風を当てて眼圧を測定する。次に目薬で瞳孔を開いての眼底撮影。これは糖尿病の症状の有無を診る。眼圧は変わりなく、眼底にも異状はなかった。今は血糖値を抑える薬も飲んでいない。次回の「視野検査」を予約し、薬局で緑内障用の目薬2個受領。瞳孔が開きっ放しのため眩しく、霞んだ視界のまま家まで慎重に歩く。ポツリポツリの雨の中、往復3kmの運動。            前日の俳句教室は散々だった。提出した句 『月明やあくまで皓き釈迦の骨』の「あくまで」は俳句では使うべきではなく、「皓き(しろき)』も不要と講師。骨は大抵白いものだからとつれない。あれだけ懸命に考え抜いた句が、コテンコテンの木っ端みじん。恐らく言葉に対する自分の感覚と、「俳句の世界の常識」が違っているのだと思う。これは基礎から考え直し、学び直す必要がありそうだ。     この日ヌサマイさんの姿は最後までなかった。初めての欠席。ひょっとしてもう私の前に二度と出現しないかも。先月の喫茶店での会話が、彼女にとって大きな負担になった可能性も。もしそうであれば気の毒なことをしたと思う。あれだけ俳句を愛し、毎月素敵な句を披露していたのに、折角の勉強の機会を私が奪ったことになるのだから。そう考えると悲しい。人を愛することの罪深さ。             おまけに気まずいことも。何とある人の句が、「プレバト」そっくりだったのだ。私がそのことを指摘すると、講師は「似ることはある」と平然。だが帰宅後、全体が「プレバト」そのものだったことに気づいた。極めて珍しい季語も、他の人が同じ番組で使っていた。俳句好きなら誰でも観る番組の作品を、そのまま俳句教室に提出する神経に驚きを禁じ得ないし、信じることも出来ない。     さて、池上彰氏のニュース解説は面白い。だが彼に対する批判を先日聞いた。彼の話す内容は、専門家に聞いたものが多い由。著書なら引用資料を必ず掲載するが、会話でも「これは誰から聞いた」と「クレジット」を入れるべきと言う意見。俳句教室での出来事は私には悪夢。「俳句を作る人なら誰でも観てる」と、なぜ考えないのだろう。人間とは実に悲しい生き物。秋は物思いに耽る季節でもある。

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