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マックス爺のエッセイ風日記

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2020.04.20
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カテゴリ:歴史全般
<何枚かの地図から その2>

    ロシア帝国の版図   

 こんな地図を観たことがあるだろうか。これはロシア帝国がもっとも広大な領土を持った時代のもので、現在のアラスカも当時はロシア領だった。それを1867年(明治3年)にアメリカにわずか720万ドルで売却したのは、露土戦争(帝政ロシアとオスマントルコ帝国)との間で繰り返された戦争により、アラスカへの補給と航路が絶たれたことによる。ロシアがアラスカまで来たのは、ラッコの毛皮を獲るためで、アラスカのラッコはほとんど絶滅したと言われる。その後アラスカからは金鉱山と石油が発見され、当初は氷しかないと苦情が多かったアメリカは、安い買い物をしたことになる。

   

 ロシア帝国の領土が拡張したのは、女帝エカテリーナ2世の時。ドイツ帝国の一小国の娘だった彼女はロシアのピョートル大帝に嫁ぐと、夫を亡きものにし自ら女帝となった。10人もの愛人がおり「王冠を被った娼婦」と呼ばれた由。オスマントルコとの露土戦争でバルカン半島諸国を独立させ、クリミア半島を領土とし、東は中央アジアからオホーツク沿岸に進出。西はリトアニアやポーランド、北はフィンランドを征服してバルト海沿岸にバルチック艦隊を置き、脅威は幕末の日本にも及んだ。

  

 恐らくエカテリーナ女帝と直接会った唯一の日本人が大黒屋光太夫(左図の左の人物)。彼は伊勢国の人で神昌丸(右)の船頭として白子浜から紀州国の藩米を積んで江戸に向かったが、嵐に遭って漂流し、当時はロシア領だったアリューシャン列島の小島に漂着。日本に帰国するためサンクトペテルブルクの夏宮に居た女帝に会って懇願し、女帝の配慮で根室へ帰国。1782年から92年にかけてのことだ。

                    

 仙台藩士を兄に持つ林子平(上)は、天明5年(1785年)出版の「三国通覧図説」で朝鮮、琉球、蝦夷地の地理や実状を紹介し。天明7年(1787年)「開国兵談」で西洋列強の脅威と、海防の必要性を説いた。ロシアは領土拡張の野望があり、ヨーロッパとアメリカは日本の開国と通商を求めた。またアメリカは鯨油を織機の機械油とするため、日本近海で捕鯨をし、小笠原諸島に基地があった。

   

 だが自ら版木を彫って出版した「海国兵談」は幕府から発禁処分を受けて蟄居し、六無斎と号する。「親も無し妻無し子無し版木無し金も無ければ死にたくも無し」の6つの無からの号で、失意のうちに死する。世人に先駆けて世界情勢に通じていたがための悲劇だった。

        

 伊能忠敬は上総(かずさ=現在の千葉県)の人で隠居後に測量術を学び、日本全土を自分の足で歩いて海岸線を測量し、歩けない場所は船に乗って測量。蝦夷地(北海道)から九州の島々に及ぶ日本全図を作成した。その精密さは幕末から明治期にかけて測量した英仏などの海軍が驚くほどの精密さだったと言う。シーボルトは禁制のその地図を持ち出そうとして咎めを受け、帰国処分となった。

 

 間宮林蔵(左)は常陸国(現在の茨城県)の百姓の子だが、測量を学んで幕府の御庭番となり、蝦夷地に赴き、択捉(えとろふ)で伊能忠敬と会っている。後に樺太に渡り、樺太が島であることを発見。これにより大陸との海峡が「間宮海峡」と命名されることとなる。松浦武四郎(中)は伊勢国出身の探検家兼浮世絵師で、蝦夷地を初めて「北海道」と名付けた。伊能、間宮、松浦がいずれも町人や農民の出でありながら、最先端の学問と技術を身に着けていたことに驚く。それが支那や朝鮮と異なる点だ。<続く>





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Last updated  2020.04.20 16:02:43
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