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マックス爺のエッセイ風日記

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2020.10.05
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カテゴリ:歴史全般
~「海のシルクロード」その2~

      

 昭和63年から64年にかけて放送されたNHKの「海のシルクロード」。もう30年も前の番組の再放送だが、新聞の番組欄を見てなかったため、何が何だか分からないうちに突然放送が始まった感じ。でも私にとっては興味あるテーマなので、TVの前に座って食い入るように画面を見つめていた。

 

 当時NHKが取材した地域の地図。正確に言えばアラビア半島の東南部からインド亜大陸の西岸部までだったが、周囲との位置関係が分かりやすいと思い、ネットで検索したこの地図を載せた。英語だし字がぼけて見難いが、想像を働かせて欲しい。出航したのはペルシャ湾に突き出たバーレーン半島のアブダビ周辺。そこから角のように尖がって、イランの軍艦が警戒しているホルムズ海峡を通過し、オマーンの首都マスカットに寄港。そこから一気にアラビア海を横切ってパキスタンのカラチへ。

                 

 そこから船を乗り継いでインドのボンベイ(現在のムンバイ)へ向かい、さらにオランダの東インド会社があったゴア、キリストの十二使徒の1人である聖トマスが布教に訪れたとの言い伝えがあるトマ。さらにかつてコショウの積出港だったと言う小さな港から、300km奥地に入ったコショウ栽培地を訪ね、最後にインド最南端のコモリン岬を訪ねて終わった。そこは海から朝日が昇り、海に夕日が沈むヒンズー教の聖地だった。今日は駆け足で旅の概要を紹介した。

  

 これが取材スタッフが便乗したダウ船。木造の小型帆船でアラビア海やインド洋の貿易風を利用して帆走する。昔ながらの手作りで、釘1本使っていない。昔からこの船で南アジアと中近東を往復して来たが、無風時に備えて最近では小型のエンジンを積載していいる。

         

 乗組員は船長以下5人。イラン人、アラビア人、アフリカ人、インド人と多彩だ。船長は乗組員にはそれぞれの母国語で指示する。イラン人へはペルシャ語、アラビア人にはアラビア語、アフリカ人にはスワヒリ語、そしてインド人にはヒンディー語で。船長には4人の妻がいると言う。イランに1人、アラビアに1人、そしてインドに2人。インドは広いために航路が長く、時間がかかるからだそうだ。

  

 欧米諸国と緊張関係にあるイラン。今でも厳しい経済的な制裁でイランは殺気立っている。だから狭いホルムズ海峡を通過するのは危険が付きまとう。遠くから艦船が近づいて来て緊張したが、イタリアの軍艦で一安心。極力オマーンの海岸に近寄って走り、無事オマーンのマスカットに入港した。

            

 雑然としたマスカットの港。小型の漁船や貿易船でごった返している。取材班の乗ったダウ船は休む間もなく出航する。次はアラビア海を突っ切ってパキスタンのカラチ港へ向かうようだ。カラチからは綿布を積む予定とのこと。カラチの手前で風が止んだがエンジンがからない。機関士は必死に動かそうとするが何せ古い装備。何とか作動し、1日遅れで目的地に着いた。

  

 さて、アラビア半島南端のオマーンとイエメンはかつてシバの女王の国と言われた。女王が直接支配したのはエジプトやエチオピアだったが、紅海を挟んだこの地へも強い影響を保持していたようだ。金を算出し、薫り高い乳香の産地だったこの地は、古代からヨーロッパとアジアをつなぐ中継地。文字通り「海のシルクロード」だったのだ。<続く>





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Last updated  2020.10.05 05:18:43
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