カテゴリ:歴史全般
~映像に観る戦争~
西部戦線(第二次世界大戦) 今日も第二次世界大戦の続き。私が観た番組の再現は不可能なので、ネットから古い写真を借り、自分の乏しい知識を頼りに「見当」だけで書いている。連合国と枢軸国の戦いは来るところまで来た。連合国は最前線に数百kmにも及ぶ塹壕を掘り、それに守られて攻撃したと言う。1年にも及ぶ塹壕暮らしで、湧いた「シラミ」が兵士を苦しめた。敵も味方も相手陣まで地下道を掘り、爆薬を仕掛けて攻撃した由。 空襲されるロンドン市街 危機に瀕した英仏はアメリカに参戦を促した。この戦争で漁夫の利を得ていたアメリカは高みの見物を決め込んでいた。だが相次ぐ参戦要請に腰を上げてヨーロッパに向かった。いわゆる「ノルマンディー上陸作戦」だ。またアインシュタインはアメリカの大統領あてに、ドイツの「原子爆弾研究」が実現する危険性を訴えた。それもまたアメリカの認識を大きく変えた。 日章旗 一方日本の立場はどうだったのだろう。第一次世界大戦後中国の山東半島の権利を手中に入れて、中国大陸進出の手がかりをつかんだ。だが、相次ぐ「軍縮交渉」で苦難を強いられて行く。満州事変、支那事変(日中戦争)で中国と深く関わった日本軍は1941年12月、「マレー作戦」によりイギリス及びオランダと海戦。真珠湾攻撃によるアメリカへの宣戦布告。「日独伊三国同盟」締結によって、戦火は全世界に拡大し、人類史上最大の戦争となった。 ネバダの核実験 そこに到るまで日本はアメリカの強い牽制に悩まされた。つまり日本の強国化を怖れるアメリカの経済統制だ。相次ぐ軍縮要求と相まって、「鉄くずの輸出」も激減された。何と日本は対戦国から屑鉄を輸入して兵器を製造していたのだ。それでは勝てる訳がない。折角建造した戦艦大和も戦地に向かう途中に撃沈された。兵站線は日増しに長くなり、前線に食料や燃料や兵器が届かななくなる。そうなれば玉砕しかなくなる。 沖縄での米国軍艦による艦砲射撃 本土決戦前の最後の砦である沖縄の周囲は、米国の軍艦によって埋め尽くされ、海上から一斉に艦砲射撃を受けた。その後苛烈な上陸作戦。日本軍は次第に南部に追い詰められ、沖縄の島民も一緒に南部に逃げた。だがどこにも彼らの安住の地はなかった。 白旗を掲げる少女 有名な「ひめゆり学徒隊」の名前は知っているだろう。南部の洞窟を塹壕として日本の負傷兵を沖縄の女学生が介抱看護した話だ。写真の少女は後に県知事となる大田昌秀氏が留学先のアメリカで発見したもの。手を上げて降伏すれば米国兵は殺さないと聞いた少女は、勇気を出して洞窟から出る。服はボロボロでもちろん素足のまま。恐らく家族は死に、何日も食べ物を口にしてなかったはずだ。 広島原爆ドーム 昭和20年8月。広島と長崎に原子爆弾が投下された。アインシュタインからの手紙に触発されたアメリカが、イギリス、カナダと協力して製造した最先端の兵器。当時は「マンハッタン計画」と呼ばれ、一部の人しか知らなかった。民間人の大量虐殺に繋がった新兵器。だが原爆ドーム付近の記念碑に日本人は刻む。「二度と過ちは繰り返しません」と。非人道的な爆弾を投下したのは、敵国だったのにも関わらず。 玉音放送 昭和20年8月15日正午。壊れたラジオから重々しい声が流れた。昭和天皇が日本が敗戦したことを国民に伝える放送だった。だがあまりにも文章が難しく音が悪いため、直ぐに理解出来た国民はどれくらいいたのだろう。ともあれ、全世界を犠牲にした長く苦しい戦争は終わった。だが、日本が悪者となり、7名の「A級戦犯」が絞死刑として裁かれたことで、全ては解決したのだろうか。<続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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