2021/11/24(水)00:00
沖縄の話をしよう(5)
~沖縄の城ものがたり~
琉球漆器のお盆で絵柄はユウナの花。わが家にもこれと同じ物があります。鮮やかな赤には、ブタの血を混ぜて使うそうです。沖縄の話を1日おきに書いています。公開の前日に予約機能を使って書いていますが、疲れて眠くなって来ました。こんな時は誤字に気づかなかったり、文章が変になったりするのが常です。それでも書き始めました。もしも途中になったら24日に続きを書きますね。
これは13世紀ごろの琉球です。各地に按司(あじ)と呼ばれる豪族が出、城を築き次第に勢力の範囲を広め、中国と貿易を始めます。日本との関係はそれよりもずっと古く、縄文時代には九州と行き来して土器や貝を交換し、奈良時代には南島人が渡来し、史料に以下の地名が残されています。海見(あまみ=奄美)阿児奈波(あじなわ=沖縄)、久美(くみ=久米島)、志覚(しかく=いしがき)などです。
紅型(びんがた=沖縄の染色)
沖縄の始祖神が北から来、古代神道に繋がること。源氏や平家の落ち武者伝説があることも日本との関係を思わせます。鎌倉時代に日本から仏教や漢字が伝わり、南九州の倭寇が沖縄に基地を持っていたことも分かっています。九州南部の地名や人名との共通性が奄美や沖縄に見られるのも倭寇の影響が考えられます。ただし異なる漢字を用いたのは、島津藩が琉球王朝を征服後本土と区別するためです。
例=中曽根(内地)仲宗根(沖縄)、中間(内地)仲間(沖縄)、松村(内地)松茂良(沖縄)など。
これは世界文化遺産、北山王国の今帰仁(なきじん)城(ぐすく)です。この城の石は他の城の琉球石灰岩と異なって熱変性のため青い色をしてるのが特徴です。とても広い城郭が4重に張り巡らされ、城壁の上の「犬走り」が見事です。奥の廓に住居址や、飲み水を得るため谷川に下りる道、馬場跡などがあります。北山を滅ぼした中山王国は、「北山監守」を置きます。
今帰仁村にある百按司(むむじゃな)墓は、北山監守やその子孫の遺体を葬った風葬墓と伝えられています。現在は高い塀で遮られていますが、低い方の塀からは中の白骨が見えるはずです。女性が2人立っている辺りです。ここで言いたいのは城と墓には密接な関係があり、しかも共に聖地であることです。
かつてここから京都大学の研究者が無断で人骨を持ち去り、沖縄県が現在返還を求めていると聞きました。かつてアイヌ人の墓から北大や札幌医大が無断で人骨を持ち去ったのと同じ構造です。人類学者や分子遺伝学者には貴重な「研究資料」でしょうが、到底許される行為ではありません。
世界文化遺産の座喜味(ざきみ)城で、読谷村(よみたんそん)にあり、中城城主である護佐丸の父王の居城とされ、城壁の石は護佐丸が生まれた恩納村の山田城から運んだとされています。私は山田城も訪ねましたがほとんど石垣はなく、周囲に風葬募も見当たらず、とても城跡と思えないほどでした。その当時長男の高校の歴史の教師は場所すら探せなかったそうです。
さて座喜味城の廓は2つでこじんまりしていますが、カーブした城壁が美しい城です。私は2度行きましたが、厳粛さを感じなかったのは、城内に御嶽がなく、付近に風葬募がなかったからでしょう。でも正確には存在するのかも知れません。かつてここには日本軍の高射砲の陣地があり、米軍に徹底的に破壊されたようです。世界文化遺産指定の沖縄の城のほとんどは戦後再建されたものです。<続く>