2022/01/12(水)11:34
文学へのトリガー(2)
~教科書で出会った文学~
私が小学校で最初に使った国語の教科書はこれか。画像検索で引っかかっただけだが、最初の文章は「たろうさん、はなこさん」だったはず。サンフランシスコ講和条約が締結された日、私たちは校庭に並び「今日から日本は独立した」との訓話も校長の名前も記憶は鮮やかだ。昭和天皇が国体のため仙台に行幸された際は、お車が通過するまで決して顔を上げてはいけないと先生に注意された。そんな時代。
覚えている最初の詩は大関松三郎のもの。お百姓さんが畑で薬缶から直接水を飲む場面で、確かごっくんごっくんのイメージが強い。彼は新潟の農民の子弟で、戦前「生活詩」の指導を受けていた。その後兵士となり戦死。師が保管していた大関の詩を戦後詩集として出版。民主教育を目指していたGHQ(進駐軍)の目に留まって教科書に載ったのではと推察。5年生(昭和29年)のころだと思う。
また急速に広がったのが作文で、戦後民主主義啓蒙活動の一助となった。無着成恭(むちゃくせいきょう)が山形県で実践した綴り方教室「山びこ学校」はその代表だろう。
その3年ほど前、新聞社から2本の鉛筆が届いた。私の詩を姉が地元紙に投稿したのだ。鉛筆は掲載の謝礼だったのだろう。「青い海 白い雲 浜辺では「まて貝」が出たり引っこんだりしている」との幼いもの。父と行った海水浴場の風景を思い描いたのだろうが、まて貝は空想。海水パンツなど買ってもらえず、裸同然だったはず。教科書で詩に出会うより前、私は「詩人」としてデビューしていた。
私が出会った最初の小説は教科書の「走れメロス」。メロスを信じて身代わりの受刑者となった友を救うため、必死に王宮まで走り抜いたメロス。2人の友情に希望を感じた。太宰治は津軽出身で、本名は津島。対馬へ旅した折、元寇の際に島民が船で逃げた先が津軽だったとバスガイドの話。津軽には対馬姓や津島姓が多い。800年前の史実が継承される不思議。私が地名や人名に関心を持つ所以でもある。
教科書で知った最初の短歌は与謝野晶子の「金色のちひさき鳥のかたちしていてふちるなり夕日の岡に」。意味は分かったが、旧仮名遣いの「いてふ」が銀杏であることに驚いた。「てふてふ」が蝶々と知るのはさらに後日。教科書は新仮名遣いに変わっていたし、当用漢字も年々変わった。それなのにこの歌が教科書に載ったのは、優れた文学でありかつ作者が女性だったからではないかと推察している。
明治天皇御集
同じころ「児童年鑑」で明治天皇の御製「ちはやぶる神路の山をいづる日の光のどけく春立ちにけり」を知った。今回ネットで確認したら明治天皇は生涯で9万3千首もの和歌を詠まれ、「明治天皇御集」上中下3巻に編集されている。この歌は下巻にあり天皇が56歳の立春の日の御製。しかしよく70年近くも忘れずにいたもの。私は「山」を「岡」と覚えていたのだが、これもきっと何かの縁なのだろう。
俳句は教科書ではなく、いきなり「本物」と出会った。正岡子規の「春や昔十五万石の城下哉」。(はるやむかしじゅうごまんごくのじょうかかな)。場所は四国松山城旧三の丸東堀端にその石碑があった。この句碑はJR松山駅前、堀端と場所を移し、現在は道後温泉の「子規記念博物館」の前にあるようだ。博物館へも入ったことがある。しかし仙台出身の私がなぜ松山にいたのか。
松山城
確か昭和26年のこと、仙台駅前の火災のもらい火で店が延焼し借金が出来た父の夜逃げ先が、四国の松山だったのだ。その3年後、中学生の兄、小学生の私と弟が夜汽車を乗り継いで父を訪ねた。給食費が払えないほど困窮していた。転校先の小学校は市の中心地にあり、裕福な家庭の子女が大半。ある時道後温泉に行こうと決まり、私も同行したが所持金が1円足らず1人だけ歩いて帰った。
道後温泉
実に生意気な餓鬼どもで、旧制の松山中学に赴任した「坊っちゃん」が手こずったのが良く分かる。因みに私の中学校は松山城の二の丸にあったが、文化庁の方針でその後取り壊された。懐かしい母校と校歌を今も覚えている。縁とは不思議なもので、父の客死で仙台に戻った私がその30年後に松山に赴任したのだから奇縁と言うべきか。俳句や短歌、詩との縁も切れなかった。人生は不思議で愉快だ。<続く>