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ある頑固な年寄りが、
「神は残酷で、人間が苦しんでいるのを見て楽しんでいる」 と言った。64歳前後と思われますが、とんでもない事をおっしゃる年寄りであります(私は彼よりもっと年寄りです)。 確かにこの世にはいろいろな悲惨な出来事が多く、生、老、病、死、という苦しみが充満している。それが、神のせいである、とこの方はおっしゃるので御座います。 この方は神という本質が分かっていない。神とは、森羅万象の制御、秩序、調和を厳然とつかさどっている宇宙根源からのパワーであり、理法、すなわちこの世の律動を支配する天理であります。その理法の動きを破壊、苦しみ、不幸の原因にするか、あるいは喜びと感動の原因に向けるかは、許された心と行動の自由に基づく人間各自の徳と悟り、実践にかかっている。 不幸の全ては、前世、今世の因縁による、わが身恨みであり、己の作った原因が芽生えたものであります。幸、不幸は己がどういう境遇に生まれ、育てられたかによって決められるものでははい。己の行い、心使いの実践の蓄積が決めるものであります。 植物の種は風や昆虫、鳥類によっていろいろな場所に運ばれて芽生える。あるものは肥沃な土地に、あるものは断崖絶壁の岩石の上に、そしてあるものは不毛の砂漠のようなところに運ばれる。その、それぞれの運ばれた場所は、その種にとって、幸、不幸の原因とはならない。 如何にして芽生え、逆境に耐えて如何にして成長していくかに、幸、不幸が決定されるのだ。全ての条件は試練であって、素晴らしく進化していくための必要条件、と見なさなければならない。 我々は生きているのではなく生かされている。生きていると思い込むゆえに人は不幸となる。生かされている、と思えば全てが受け入れられる。 心臓は、1日に約10万回の鼓動を打ち、5リットルの血液を1分間に全身に送りとどける。その血液が全身を一周する時間はたったの24秒であります。呼吸は1日に約3万回、炭酸ガスを排出し、酸素を取り入れる。それらは人間の意志によるものではなく、無意識に成されている事を思えば、我々は生きているのではなくて、奇蹟の中で生かされている、ということが納得できる。 神は親であり愛である。人間を不幸に陥れようなんって、そんなちっぽけな存在ではない。小さい心ではどうにもなりません。広い大きな心で進化の道を歩みましょう! 庭の片隅に咲いたウコンの花です お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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