2007/01/19(金)15:55
東大・安田講堂攻防戦から38年
もう38年も経ったのか。
戦後最大の事件だったと言って差し支えないだろう。
1969年(昭和44年)の今日1月18日と翌日の2日間に渉り、東京・本郷の東京大学・安田講堂を不法占拠した全学共闘会議(全共闘)の活動家分子と警視庁(というより、日本国家権力)との間の戦いで頂点を極めた、いわゆる「安田講堂攻防戦」が展開された。
今では信じられないが、当時気の利いた若者は“革命”を幻視するのが当たり前みたいな風潮で、世間や女の子たち(!)の一定の支持もあり、制圧側の警視庁機動隊の若者たちは「権力の犬」として全く不人気で、見合い話すらなかったという。
まだ、カップヌードルも発売されていなかった。
このクソ寒い中、本当にご苦労様でした。
この東大構内での攻防戦は警察側の完勝に終わり、政府・自民党は治安回復への自信を取り戻したが、当時文藝春秋記者として現場を取材していたジャーナリスト立花隆の著書「中核vs.革マル」(講談社、絶版)によると、その周辺のお茶の水・神田・秋葉原界隈は“解放区”という名の無法地帯となり、権力側の限界も露呈していた。
当時田舎の小学生だった僕も、NHKも全民放も挙げて通常番組を完全に休止して中継した攻防戦を、周囲の大人たちとともに息を呑んで、モノクロの小さなテレビ画面で注視し続けた。
昨今の“ブログ炎上で大騒ぎ”なんて小さい小さい。
この時、日本国家と革命勢力はガチンコ勝負をし、双方火だるまになって炎上し、辛くも国家側が生き延びた。
この後、全共闘・共産主義暴力革命勢力の残党は、散り散りになりながら三々五々過激化し、数年後には「あさま山荘事件」や「赤軍派リンチ大量殺人事件」、「よど号ハイジャック・北朝鮮への亡命事件」、「丸の内・三菱重工本社爆破事件」、「秦野警視総監夫人爆殺事件」、そして「中核派」、「革マル派」などの間のバールなどを用いた殺し合い“内ゲバ”など、断末魔の凄惨な事件を起こしながら自壊していった。
現在、彼らの多くは生ける屍のようになっていることが、何かの拍子に時折伝えられたりする。
当時こちらも思春期に差しかかり、正規分布でいえば僕らの10~15歳上ぐらいを中心とするインテリなお兄さんお姉さんたちが、なぜ破壊のための破壊みたいな愚行に狂奔しているのか、非常に疑問に思った。
その後多くの関連書物を読んで、時系列的な経緯については大体分かったように思うが、ある意味、“革命”を自己目的として、あるいは彼岸の浄土として、ひたすらな破壊の方へ倒錯していった一種の腐敗(彼らは、自己こそが最も純粋であると確信=狂信していた)の心的メカニズムについては、到底理解できないものであった。
これは、“オウム真理教事件”でも繰り返されたことである。
深入りしてもしょうがないので、一言のもとに斬り捨てれば、“集団ヒステリー”でもあったろうか。
いずれにしても、そうしたお兄さんお姉さんたちの“奮闘”のおかげで、僕たちはまだ子供だったけれども、とっても大事なことを体感的に学んだように思う。
それはユダヤ系ドイツ人カール・マルクスの思想が間違っていたということにとどまらず、全ての「大きな物語」を語る思想は胡散臭いということだ。
思想の暴力の恐ろしさが、この目に刻まれた。
日本の隣には、今なお“主体(チュチェ)思想に基づくウリ(われわれ)式社会主義”を標榜する“労働者の楽園”が一衣帯水に存在する。何をか言わんや。
そして何かを“至上”とする考え方は、確実にインチキだということだ。
たぶんそれが、“恋愛至上主義”だとしてもね。