カテゴリ:社会現象 フェノメナ
1969年1月18日夜 本郷 東京大学・安田講堂 (写真は全て、高沢皓司「全共闘グラフィティ」(新泉社、絶版)より無断転載。 ・・・すみません。) 僕も今さら全共闘の話題でもないとは思ってるけどね。 言いたいことはただ一つだけ。 二度とああいうバカげた愚行を繰り返してはならない、という切なる願いである。 きのうきょうと2日連続で、「おもいっきりテレビ」(日本テレビ系全国ネット)が「安田講堂攻防戦」特集を組み、短い時間ではあるが、なかなか見ごたえのある映像を放映した。 こちらはまだ子供だったとはいえ、あの時代の空気をリアルタイムで見聞きし肌で知っている世代としては、やはり大きな感慨を禁じえなかった。 ――彼らは〈それ〉を「解放講堂」と称した。 周辺のお茶の水・神田などの学生街は「解放区」だった。 彼らの論理による規定では、「ブルジョア帝国主義者の独占」から「プロレタリアート」が「解放」した、というような意味であったろうか。 あらゆるところにバリケードが築かれ、封鎖され、アスファルトは剥がされ投石のためのブロックになった。 当日の神田神保町付近 ・・・が、片腹痛かった。 大多数の国民は冷たい目を降り注いでいた。 単に不逞の輩が不法占拠して居座り、破壊しただけだったとも言える。 「昭和戦争(大東亜戦争・太平洋戦争)」がテーゼ(措定)だったとすれば、「学園紛争」がアンチテーゼ(反措定)だったともいえるだろう。 どちらも激烈な暴力の中で、多数の前途有為の若者たちの人生が帰らぬものとなり、あるいは破壊し尽くされた。 どちらにも、自分の手を汚さない指導層の老人たちがいた。 かたや戦争指導部の老人たち、こなた岩波講座派の左翼学者たち。 愛人の日本舞踊家・花柳幻舟が“家元制度打倒”を叫んで刃物片手に実力行使に及んだ時、逃げ隠れする情けなさ。 そして、納得のいくジンテーゼ(総合)が行われたという記憶はない。 全てがうやむやの中、忘れ去られていった。 まあ、それはそれで仕方がないことだったかもしれない。 誰も思い出したくないほどにその傷は深かったからだ。 全てが虚しかった。 一瞬の祭りに似ていた。 祭りのあとのさびしさは たとえば女でまぎらわし・・・ 岡本修巳「祭りのあと」(吉田拓郎) それは何も生み出さなかった。 せいぜい「無援の抒情」でメージャーデビューした歌人・道浦母都子と、 「止めてくれるなおっかさん/背中(せな)で牡丹が泣いている/男東大どこへ行く」のスローガン(?)でデビュー(?)した、当時東大国文科在学中だった巨人・橋本治ぐらいか。 彼らの近年の立派な仕事に対して、今なお「寝返った」とか「同志を裏切った」とかいう時代錯誤な罵声が時折投げつけられていると仄聞する。 それは、30数年前にアルバム「元気です!」などで“「プチブル・走資派路線」に走った”吉田拓郎に投げつけられた言葉と同じである。 しつこいよ、全共闘世代。 ・・・そして、あの日も今も、空は無関心に青く輝き、野良猫はゴミを漁っている。 世はすべて事も無し。 当時の東大正門 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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