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カテゴリ:家事と仕事
あの阪神淡路大震災から14年。 前日に家で大宴会をして午前3時過ぎに布団に入った。 ドン! という衝撃で目を覚ました。 大丈夫か! 私は布団の外に投げ出され 枕の上には 部屋の隅に置いてあった編集用のテレビが落ちていた。 行くぞ! マリブとプリンが主人に飛びつき 2匹を小脇に抱えて 階段を降りて行く。 私は なにがなんだか分からないうちに 後を追った。 階下はあらゆる物が散乱していた。 玄関はかろうじて開くことができた。 オヤジ~! という悲痛な主人の声。 続いて母屋に入ると 舅のベットにタンスが。 幸いなことに ベッドの柵がタンスを受け止め 舅はかすり傷ですんだ。 姑も無事。 母の家に駆けつけると 随分揺れたね恐かったねといいながら もう片付けを初めている。 昼頃になって 翌日は名古屋で仕事なのだと気づいた。 橋桁が落下したというニュース。 新幹線は止まっている。 大阪は被害が少ないらしい。 地下鉄も近鉄は動いている。 散乱した仕事場から資料や洋服を探し出し、 2時間ほど歩いて電車に乗った。 翌日、無事に到着したので安心してもらいたいと 仕事先にはいつもより30分早く到着した。 あちらは大変なことになっていると言っても あまり実感はないようだった。 1週間後に、同じ仕事先に行ったら えらいことでしたね。6時間も。 3倍も歩いたことになっていた。 被害が出ている模様という程度の 報道だっのが 日が経つに連れて 大惨事の様子が伝えられた。 ニューヨークにいた息子とは国際電話が通じた。 生きていてくれてよかったと言った。 すぐに不通になり、しばらくは連絡ができなかった。 ライフラインが早く復旧したので 知り合いの家族に風呂に入ってもらった。 1日に数組しか対応できないが 高齢のご夫婦は 何よりも風呂がありがたいと 涙を流した。 知り合いの中国からの留学生が気がかりで 避難所を探しまわったが 連絡が取れなかった。 1カ月ほどして無事が確認できた。 中国政府が即刻国に帰るようにと 手配をしてくれたという。 ほっとした。 大阪の仕事先の人に 行きつけの小さなバーに誘われた。 客は私たち3人と カウンターの端に座っていた 中年の男性だけ。 仲間の1人が、お腹が空いたと言い ママがおむすびを作ってくれた。 ママが中年の男性にもすすめると 吐き捨てるように そんなものいらないと言った。 しら~っとした空気が漂った。 随分前に一度来たことがあるのでと 寄ってくれたのだけど だいぶ飲んだから酔ったのねと ママが耳打ちした。 悪かったね。 冷えてカチカチの握り飯を 毎日食べている。 見るのもイヤなんですよ。 中年の男性が ポツリ、ポツリと話し始めた。 瓦礫の下から近所の人を助け出したり 世話を焼いたり互いに助け合って 頑張った。 金を持った人達は とっくに脱出している。 独り身なので自分も何処かに行こうかと 思ったけれど あんな状態じゃ逃げ出す訳もいかない。 被災者のくせにボランティアをやっている。 どうにもくたびれて 一息つきに来た。 日本中が大変なことになっていると 思っていたが こことあそこでは雲泥の差 おかしなものだね。 さぁ、帰るかと 支払いを済ませて 店を出ていった後姿 今も目に焼き付いている。 あれから14年。 あの方はどうしておいでだろう。 舅も姑も マリブもプリンも 今はもういない。 毎年今頃 思い出すこと。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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