人間の身体の方は、毎日、細胞分裂が繰り返され、生きる方向へしか、向かってない。怪我をしても、風邪を引いても、身体は、それを治す方向に向かう。 たとえそれが、自殺を選択した人間の身体だったとしても。
身体は、死ぬ一瞬まで、生きる方向にしか向かっていない。
私は、「自殺」というのは、「死」というものを生半可に理解している人の「逃げ」の選択肢のように思っている。 青少年の自殺は、そういう意味で、「いじめ」などの原因もさることながら、私たち「大人」の責任はとても重いと思う。
死に急ぐ子供達は、「死」をどのように捕えているのだろう。
核家族化で、「仏壇」のない家も多い。 (うちにも無いが・・)お墓参りも、寝たきりの年寄りも身近にいない生活で、「死」や、それに対する「生きる」ことに携わる機会があまりにも少ない。 「死」を傍らに持つ「生」を教えるのは簡単なことではないだろう。
子供には、もうストレートに、
「親より先に死んだら許さない!」
と事あるごとに、言い続けるしかないのかもしれない。 とも思う。
17年前に、私の父は他界している。 その時、かなり、ショックだった。 それは、自分の親は死なないと思っていたから。 でも、そのくらいの認識が普通なのかもしれない。 そう思うと、未熟な子供達の「死」に対する認識が・・・「逃げ」の一つの手段になったとしてもいたしかたないのかもしれない。 想像すると悲しくなる。
私は、昨年、夏、体調を崩し入院した。 手術を含め、2か月半ほど、入退院を繰り返した。
子供は 「病気で死ぬのは寿命じゃない」 なんて言ってたけど
「その時」は、自分では決められない。 多分、決めてはいけないもの。
今の医療の進歩がなければ・・・20年くらい前なら、多分、確実に死んでいたと思う。 私の、本当の寿命は、去年の夏だったかもしれない。
入院生活の中、人間の「命」がとてもちっぽけなものに感じた。 毎日、朝が来る。 当たり前のことなんだけど、私が消えても、それは変わらない・・・誰が消えてもそれは変わらない。 そういう所に、向かっているのが、人の一生なのだと思った。
また、そんな、あたりまえのことを分かっているふりをして、少しも分かっていなかった自分を恥じた。
時が経てば、誰でもいずれは死んでいく。 生きたいと願っても、死んでいく。
80になっても、90になっても、もう少し生きたいと思うのが人間なんだと思う。それでも、死なねばならないのが人間なのだと思う。
「生」は、そういうものの上にある。 自分ではいかんともしがたい、「死」の存在を受け入れ、それでも、人として「生き切る」事をしなければいけないのが「人の一生」と思う。
自分ではちっぽけと思える一生を、輝くものにし「生き切る」ために、誰かの役に立ったり、必要とされることが必要なのだと思う。
人と関わり、心を共有することが必要なのだと思う。
「生」は当たり前のことなんかじゃない。
だから、本来の人間に、「自殺」なんて言う選択肢があってはならないと思う。
それは、人生を「死ぬまでの辛抱」としか捕えていないことだ。 それでは、「生」の一瞬を感じることはできない。
「生」のはかなさを思えば、「一瞬」がどれ程大事かわかる。
子供の小さな手を握り締めて並んで歩けることや、毎日「いってらっしゃい」と送り出せることが、かけがえのないものになる。 そういうものを抱きしめて、穏やかに過ごせることが幸せになる。
明日をいつもどおり迎えられる保証なんかない。
そういうことを心のどかに住まわせなければならない。
生きたくても生きれなかった同胞や、残されることになる子供たちや、友人のために、
「生きている」ことの大事さを噛みしめて生きなきゃいけない。 生きれなかった人たちの分も「生き切ること」をしていかなければいけない。 それは、権利ではなく、義務に近いものではないのか。
子供に命の大切さを教えようとするのなら、それを、口先で唱えるより、自らが、死を抱えて生きる姿勢を持たねばならないと思う。
人間は、病気にもなるし、死ぬものだ。 それをどこかで抱え、なおかつ、それでも、生きなければいけないものなのだ。 そして、そこからは、誰も逃げられない。
私は、そういう思いを伝えられる「親」でありたい。
・・去年の夏、死んでいたかもしれない私は、そう思う。
↓ 参考文献
バカの壁
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