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テーマ:介護・看護・喪失(5317)
カテゴリ:ひとりごと
今日、父は息をひきとった。
仕事中、兄から携帯に電話があった。 麻酔が効いていたので、最後は苦しい様子もなく、安らかだったそうだ。 入院してからずっと父は苦しんでいたし、兄嫁の献身的な看病も体力的にいつまで続くか心配だったので、連絡があったときは、これで良いと納得した。 僕は今、実家に向かう電車の中で日記を書いている。 今は冷静だが、父の姿を見たときは、感情が込み上げてくるのだろうか? 見たくない... 父は昭和一桁生まれ。 子供のころは文武両道で神童と呼ばれていたそうだ。 戦争中、陸軍幼年学校に入学し、軍人の道を歩もうとしたが、在学中に終戦。 大学では物理を学び、高校の教師になった。 そして母と出会い、母の父が経営する会社の跡を継いだ。 先々代が成功し富を得た老舗の中小企業だったが、先代の消極経営がたたって低迷し、父に代わって積極経営に切り替えても、事業規模が大きくなった分、負債が増えるだけだった。 考て見れば、プライドが高く頑固で正直で短気な父に商売は向かなかったように思う。 得意先に頭を下げることができず、どうして商売できるの? 僕が経営コンサルタントを目指したのも、父の会社経営に対する問題意識からであった。 しかし、父は長年、地域の小中高校のPTA会長や、家庭裁判所の調停委員を務め、地域社会に貢献した。 これは立派だったと思う。 父は説教が大好きで、酒が入ると、僕たち子供に延々と説教をしていた。 僕はうるさい父から解放されたいという一心で東京の大学に入った。 兄も同様だったと思うが、長男として父の後を継ぐことになった。 親子がいっしょに仕事をすることは本当に難しいものだ。 厳しいようで甘い。 すぐ感情が表れてしまい論理的な議論ができない。 経営方針について父と兄は、いつも対立していた。 対立というよりも意地の張り合いと言った方が良いかもしれない。 僕は監査役という立場だったが、離れた場所で生活するサラリーマンの僕には、この溝を埋める力は無かった。 中小企業の、年に数回行われる役員会で、いくら良い意見を言って、良い結論が出ても、いつのまにか忘れ去られている。 僕が心理学やカウンセリングやコーチングに興味を持つきっかけは、父と兄の感情コントロールの仕方や人間関係に対する問題意識だったのかもしれない。 僕も長年コンサルタントをやっていて大企業の成功事例がいくつもあるが、もっと身近な、この中小企業を変えることができない。 父と兄を見て、いくら結論を出し、その場で合意しても、結局、本人が気付き、自覚しなければ、何も変わらないということを思い知らされた。 僕もようやく、カウンセリングやコーチングに目覚めたところだったので、父の死は、子としての悲しみだけでなく、仕事の面でも大変残念。 兄が父に尊敬の気持ちを表し、父が兄を認め、互いに協力し合う様子を見たかった。 父は、どのような思いで死んでいったのだろうか? 結局、自分の分身なんて作ることはできないことを悟ることができたのだろうか? もう少し時間が欲しかった。 僕が真のエグゼクティブコーチになるまで、待って欲しかった... お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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