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勝ち負け社会到来と言われて久しいが、一般的には、お金至上主義を前提にした話。
何を持って勝ちか、負けかは、人の価値観によって違うだろう。 『孫子の兵法』は、勝ち方、生き残り方の秘訣が込められているが、それを何のために使うかは、人によって違う。 三国志の英雄である劉備と諸葛孔明は漢の復興により平安な世を実現するために戦い、曹操は自分の能力・可能性を追求するために戦ったのかもしれない。 同じ兵法を活用しながら、目的は違う。 『孫子の兵法』では、勝つためには敵を欺くことも良しとしているが、それは志が正しければ、何をやっても許されるということ。 日本人の僕の感覚(美意識)からすると、ちょっとついていけない面もある。 逆に、勝つために志を捨ててしまっては、おしまいということ。 さて、ジーコの志は何だったのだろうか? ジーコはおそらく『美しく勝つ』ことにこだわったのだろう。 個人の能力を高め、自由な発想から美しいプレーが生まれ、観客を魅了する。 美しくなければサッカーではない。 だから汚い手で勝つことは許されないのだろう。 ジーコ自身、クリエイティブなプレーで観客を魅了した一流選手だったから、余計に拘りが強いと思う。 だから、ジーコは日本が負けても、自分のやり方は変えず、どうすれば美しく勝てるか今後も追求するだろう。 ジーコが日本の選手に合ったサッカーを目指していたのではなく、日本の選手がジーコのサッカーについていくよう合わせていたのではないか? ある意味、日本人はジーコの拘りにつき合わされたのかもしれないが、文句があるなら、ジーコを選ぶ前に言うべきだったのだろう。 中田、中村、小野がいればブラジルのようなサッカーができると錯覚していたのは我々日本人。 トルシェのような選手として活躍しなかった監督は、純粋に勝つことに拘る。 監督としてのプロ意識が強く、純粋に勝つためにベストだと思うことを実践する。 それが『規律』なのかもしれない。 トルシェが志がないということではない。 ジーコとは価値を評価する視点が違うということだろう。 トルシェの志は知らないが... オシムもきっとトルシェのようにプロの監督ではないだろうか? もう少し頭は柔らかく奥が深そうだが... 話は戻って『志のために勝つ』 これが大事。 しかし、世の中、志ではなく、一時的な感情で勝ち負けを競う人が多いように思う。 それは時間の無駄。 気をつけないと。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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