メルボルン二世の思い出の中の地方競馬

2006/12/05(火)06:21

名人竹島春三の真実

地方競馬(1941)

竹島春三と言うと、眉をひそめる競馬関係者は多い。特に、川崎競馬主催者と地方 競馬全国協会は『八百長騎手』と言う間違った烙印を押されたこの名騎手を話題にし たがらない。連日『竹島春三。竹島春三』と書き捲くった新聞社の連中の中に地方競 馬を頻繁に・いや一度でも取材に来ていた者は皆無である。  それどころか、 <中央競馬会様、様>の御用記者(地方競馬嫌い)ばかり。 そんな連中に、真実の姿が見えるわけがない! だから、勝手な評価をして欲しくない。というより虚偽んばかり。そこで、 竹島春三ファンであるメルボルン二世が真の姿を伝えたいと思う。(取材協力は、恩師井上調教師未亡人)  昭和39年に騎手免許を取得。翌昭和40年、デビュー2年目の減量騎手の身であ りながら、9月8日・川崎競馬4日目には、地方競馬所属騎手としては6人目となる 1日5勝の記録を作った。結局、この年266勝という驚異的な勝ち鞍を挙げた。南 関東リーデイングジョッキーでも、堂々の2位。1位には世界の佐々木竹見が401 勝を上げ君臨していた。  この新人離れした活躍によって、競馬とは全く関係ないことでイジメに遭う。『ア イヌ・アイヌ!』がそれであった。その一方では、群がってくる取り巻きによる<ヨ イショ>も凄まじく、まだ若かった竹島騎手を有頂天にさせた。『春もどんどん勝て るものだし、その気になっちゃたんだよね』と井上師未亡人は、寂しげに語った。  『口うるさい主人がですよ。「<春のように上手な奴はいない! 竹見の持っていないものを 持っている>」とよく言っていたものです。それと、記者さんたちが、ファインポート の東京大賞典のときに<前半の1800を一二半十二半で行け!>と指示したと書いて いますけど…。毎レース、ラップタイムの指示はしてたんですよ。競馬から帰ってく ると主人<春は寸分違わず乗ってくる>と笑顔で話しては驚いていましたですよ』  『主人が<春!乗り役にアイヌもへったくれもあるか!青野さん所の竹見を見ろ! 田舎から出てきて一人で頑張ってるじゃないか>と言ったんですけどねえ。いいこと しか言わない悪い仲間に取り巻かれて喜んでいたようでした』。このときの肩を落と した井上師未亡人の寂しそうな姿が今も目に浮かぶ。一言『もう戻れなかったんだね』と。  『あのときに、毎日、新聞で竹島!と大騒ぎされたじゃない。警察に連れてかれた ときのことだけど、担当の刑事さんがうちに来て溢してたのよ<氏名と職業を言った きり一言も口をきいてくれないんですよ>って』  『結局、<不起訴>だったのに、新聞に『竹島春三・竹島春三』と地方競馬に来たこともない社会部の記者たちに書き立てられたことで、『一本気なだけに騎手を続けるのが嫌になってしまったようでした』。 ずうずうしければ、「不起訴だったんだから」と平気な顔で乗るんでしょうけど、春はそんな人間じゃないんですよ! いずれ主人(井上調教師)も厩舎を継がせたかったようでしたけど……。  主人のお葬式に来てくれたので、預かっていた<不起訴状>を渡してあげたんです  私の所には、来辛いらしくてこないんですよ。娘の所には、顔を出しているよう ですけど…。皆、悪人のように言いますけど、いい子でしたよ。達者でしたし。春は あの子は顔で損したのよ。』  確かに、高崎競馬場で「騎手招待競走」があったとき(水野貴史騎手の父上が優勝 した年)騎手の集合写真を改めて見て見ると竹島春三騎手は際立っているので直ぐに わかり、ます。 警察で一言も口をきかなかったことで、当局での印象を悪くしたように思えるのだが…。 *竹島騎手との話で印象に残っているのは、あの正確無比な体感時計のこと。なんで あんなに正確にラップを踏めるんですか? と大胆にも聞いたところ怒りもせず「ハ ロン棒とハロン棒の間を自分の馬が何完歩で走ってるかを体で覚えるんだ。毎日の攻 め馬で考えて乗っていれば自然に身に付くんだ」。そんなこと言っても並みの人間じ ゃ出来ないはずです。やっぱり竹島騎手は、一握りの天才騎手だった。 未だに思うのは、地方競馬を全く知らないで記事(デマ)を書く社会部の記者さんってそんなに偉いんでしょうか?

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