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メルボルン二世の思い出の中の地方競馬  楽天競馬ブログ 1423065 ランダム
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テーマ:地方競馬(334)
カテゴリ:地方競馬
■岩本亀五郎調教師が語る思い出(93キロを背負っても 
『戦前の神奈川県には横須賀、大船、登戸、藤沢、平塚、厚木、小田原、松田(足柄上郡)、の八箇所に競馬場があって、神奈川県畜産連合会が競馬を主催していました。全て公認の競馬場です。神奈川は競馬の盛んなところだったんですね。中郡.(現在の秦野市)に会った私の家も競馬をやってましたから、私自身も子供の時から仕事は競馬以外に考えられませんでした。』昭和四年横須賀の故日高直一郎師の元に弟子入りした岩本師は、厳しい修行にに耐えて、18歳で騎手としてデビューする。
「横須賀港には軍艦がたくさん入っていましたが、私の始めて乗った馬はそれらの軍艦のひとつにちなんで名づけられたミョウコウという馬でした。名前がユニークで、人気のあった馬でしたね」
このミョウコウで初勝利を上げた岩本師は、以来騎手としての実力を着々と磨いていった。県内八箇所のの競馬場を中心に騎手生活を続けたが、今でも印象に残っているのはカナガワテツカブトという馬だ。「8の字型、1マイルの芝コースで、国営の根岸競馬場に負けないくらいの立派な競馬場だった』という往時の戸塚競馬場。昭和10年代、この戸塚競馬場ウィ沸かせたのは「戸塚競馬の三羽ガラス』といわれたカナガワテツカブト・アイチバズカロン・アズカルの三頭で、岩本騎手は77キロの斤量を背負ってカナガワテツカブトに騎乗、地元で人気を集めていた。騎手としての地位は同馬によっていよいよ不動の物になっていった 。
 昭和十年代も半ばころになると世の中の軍事色は一層強まり、競馬界は鍛錬場競走の時代へ入って行った。岩本騎手は鍛錬競馬における日本馬事会の専属騎手となった。鍛錬馬の騎手騎手として全国を回ることになるが、その騎乗・調教技術は一級品だったと伝えられている。
『鍛錬競馬は各地で大会がありましてね。そこで馬がランク付けされるのですが、私は五回つづけて一等の一番を取ったことがあります」
 一等の一番とは鍛錬馬の中で最優秀と認められた五頭の馬に与えられる栄誉だが、五回の大会で連続して一等の一番になる馬を作ることはほとんど例を見なかった。走した一等の一番野仲でも、70キロを背負って優勝したアイコウマンリーは、馬政局長官賞を取った名馬だった 。
「アイコウマンリーとともに忘れられない鍛錬場といえば、園田で乗ったキリキヨです。この馬は小柄な牝馬でしたけど、大変な力馬だったですよ。88キロ背負って1着になったときなんか鞍に跨ると馬の背中が、沈むというか、撓う感じだったですよ。それでも勝っちゃった。そしたら、今度は93キロです。いくらなんでも93キロはきついと思ったんですけどねえ」
 今では到底考えられない極量(93キロ)を背負わされたキリキヨは、それでも勝った。『スタートを切ってすぐには重いからスピードが乗らなかったんです。でも、3コーナーあたりから徐々に好位に上がっていって、直線ではピューッと1着になりましてね。このときのレースはとても忘れられません。何しろ、レースを終わって台計(だいはかり)に乗るときも、反動をつけないと乗れないくらいの斤量でしたからね』
斤量93キロ!!!!!! おそらくレコードでしょう。
 終戦後は、小田原、新丸子などで盛んに行われていた畑競馬の時代を経て、昭和23年10月から戸塚で地方競馬が始まった。この戸塚競馬は関東でも有数の人気があった競馬場で、全国的に見ても屈指の盛況ぶりだった。
『でも、戸塚競馬場は上り下りがきつい競馬場で、しかも馬場が赤土だったからしょっちゅう転倒事故がおきましたね。特に3コーナーから4コーナーにかけての下り坂が急で酷かった。よそから来た騎手はみんな怖がったものですが、私は地元で慣れていましたから、そこで勝負にでられたんです」岩本騎手は、昭和23年から5年連続で神奈川県競馬のリーデイングジョッキーとなったが、戸塚競馬場に於ける3コーナーの下り坂の手綱捌きは天下一品だったといわれている。この戸塚競馬場は昭和25年で廃場となり、替わって同年から川崎競馬場がスタートした。川崎競馬場は、当時としては破格の1億5000万円という巨費を投じて建設されたもので、以降、地方競馬の一方の雄として発展していくことになる。
岩本騎手は当時戸塚に住んでいたので、川崎競馬場へは約一時間かけて山道をオートバイで通った。
『朝の三時に戸塚の自宅を出るのが日課でしたが、冬はもう寒くて。懐の中に新聞紙を入れて、風が少しでも通らないように身支度してバイクに跨ったものです」 《続く》





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最終更新日  2007年10月04日 17時03分15秒
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