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2019年03月26日
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甲州金(こうしゅうきん) 

〔山梨日日新聞社 山梨百科事典〕

 

室町時代(13931573)末期から江戸時代(1603-1867)を通じて甲州一国に通用した独特の地方貨幣で、日本貨幣史上・著名な金貨である。

甲州金一略して甲金(あるいは甲州判)がいつころ、だれによって造られ始めたかは明らかでないが、中世武田信虎のころには存在していたようで、武田氏の統率下に山下、志村、野中、松木の4金座があって盛んに発掘鋳造していた。

武田氏滅亡とともにこの4家も免職され大久保長安が起用されたが、やがてこのうちの松木五郎兵衛のみが専任され・甲州金座役人として極印を預かった。

松木金座は幕府の後藤金座の監督下にあり、鋳造所は府中の佐渡町(相生二丁目=長安の時、佐獲から金工を連れてきて住ませた〕に設けられ、請け負い制度であつた江戸時代の下金は雨畑村の山金・砂金が多かった甲州金の種類はすこぷる多く、単位貨幣も両・分・朱の下に朱中・糸目・小糸目・小糸目中に至る小貨幣があり、鋳造の年代によって品位もさまぎまで「甲斐国志」その他の諸書の述べる所にも差違がみられ、大別すると古甲金・甲小金・甲安今吹・甲重金・甲定金の5種があった。

これらを説明すると

 

甲州金 〔山梨日日新聞社 山梨百科事典〕

 

【古甲金=ここうきん】

 

元禄(1668-1704)以前の甲州金の総称で、100種以上の種別があり、形態の上からは竹流金・判金・碁石金・太鼓判などがあって、多くは裏が無文で品位はすこぶる高かった。特に武田信玄時代は切りづかいの秤量貨幣で分判の制はなく、多く軍用金・恩賞物に用いられている。

 

【甲安金=こうやすきん】

宝永(1704-17!1)のころ、甲斐の領主柳沢吉保が・将箪綱吉の元禄小判改悪にならって改鋳したもの。

 

【甲安今吹=こうやすいまふき】

1714(正徳4)年、吉保の子柳沢吉里が新井白石の正徳小判鋳造に準じて改鋳したもので、品位はよくなっている。

 

【甲重金=こうしげきん】

1721(享保6〕年、再び柳沢吉里が改鋳したもので、品位はさらに向上した。

 

【甲定金=こうさだきん】

柳沢氏転封俊、金貨欠乏のため1727(享保12)年に吹き足したもので、甲重金と同品位といわれた下金のある場合に鋳たが、鋳造額は当時から極秘であった。

 

江戸中期に甲州にきた青木昆陽は、年々3400-3500両といっているが信じがたい。

松木家文書では1696(元禄9)年までに50万両余り吹き足し、甲安金は4C万両、甲重金は12万両、甲定金は5万両、といっている。

甲州金と他の貨幣との両替は「甲斐国志」によると慶長小判10両は甲金13.4両余り替えであったそうだが、甲重金以後は全国共通の統一貨幣たる文字金(文金)が多く入りこみ、文金10両に甲金91-2分から7両前後であった。

銀との両替は甲金1両に銀48(180)と一応きまっていたが常に変動していた。

銅銭とは享保(1716-1736年〕のころは甲金1両に3貫文余、文化(1804-1818)のころには7-8貫文に変わっている。<野沢昌康>

 

甲州金座(こうしゅうきんぎ) 〔山梨日日新聞社 山梨百科事典〕

 

戦国時代(1467-1568年〕・金座の制を定めて幣制を整えたのは武田信玄が最初といわれる。当時の甲州金座役人は、山下・志村・野中・松木の4氏だが、松木氏以外は由緒

不明である。徳川家康は新たに大久保長安を金山奉行に任じ、すばらしい実績をあげたが、長安の刑死後・松木五郎兵衛だけを甲州金座役人として再び起用した。

現存する甲州金にほとんど「松木」の極印があるのはそれである。

鋳造所(御吹所〕は長安の時いらい甲府・佐渡町(相生二丁目)にあり、請負制度で冥加金を出していた。<野沢昌康>

 

甲州金山(こうしゅうきんざん) 〔山梨日日新聞社 山梨百科事典〕

 

甲州で金山の開発が最も積極的に進められたのは、武田信玄のころから江戸時代(1603-1867)初期、すなわち16世紀中ころから17世紀終わりにかけてであった。

全国的にもこの約1世紀問に金銀山の開発が積極化して明治(1868-1912年〕以前における最大の繁栄期とされているほど金銀の大増産をみているが、これは採鉱製錬などの新技術が伝来して、従来の砂金から山金(鉱石〕採掘へと進んだことにもよるが、それよりは

戦国諸大名による統一事業の進捗につれて、年貢の銭納化、商晶経済の急速な拡大発展など貨幣流通が著しくなってきたこと、金銀が戦国大名にとって軍用金として、恩賞物として高い価値を発揮したことが大きな原因となっている。

これらのうち金山採掘を早くから最も盛んに行なっていたのが武田氏で、信玄ほど金の威力を認め、かつこれを積極的に利用したものはまれであった。

信玄時代の金の産額は知ることができないが、いわゆる甲州流土木技術とも結びついて甲州における産金の全盛期を現出した。

 

信玄時代の金山といわれるものは、地域的に次の5カ所にわたっている。

 

  1. 黒川金山、黄金沢(こがねぎわ)金山

    塩山市(甲州市)。塩山市から大月市、奥秩父にかけて鉱脈がある。

  2. 川端下(かわはけ〕金山、梓山(あずさやま)金山

    信州南佐久郡川上村だが、武田領であり信玄が採掘させたので甲州金山の一つと考えたい。産額は多量であったらしい。

  3. 御座石(ございし〕金山、金沢金山

    鳳凰山北ろく(韮崎市円野町)から信州(茅野市〕へ

  4. 黒桂山(つづらやま)金山、

    (ほう〕村金山、雨畑(あめはた)金山早川町。早川と雨畑川にはさまれた地域。駿河の安倍金山もこれに続く。湯之奥金山などと共に穴山氏の支配下にあった湯之奥金山(中山金山)、川尻金山下部町。駿州富士郡の富士金山もここに続いている。

     

    金山のことは極秘事項であったから史料がほとんど残っていない。金山の名前も鉱坑(間歩・まぶ)も多数あるが、その年代は厳密にはわかりがたい。いずれにしても産額の最も多かったのは信玄の時代、続いては徳川家康の家臣となった大久保長安が金山奉行であったころで、それ以後は元禄・(16881704)頃まで産出していた。金山に金鉱(間歩〕を所有し、人を使って採掘・製練を稼行していた人を江戸時代(1603-1867)以前には金山衆と呼び、いずれもその土地の豪族で、黒川金山には萩原・田辺、黒桂山・保村・雨畑金山には佐野・湯之奥金山には佐野(門西)などの諸氏がいた。金山跡には○○千軒、千かまど、遊女屋敷、遊女平、小屋場などの地名が残っていたり、各種の石ウス類、鉱石ズリなど昔を語るものがみられる。

    なお、砂金は江戸時代を通じてこれらの地域内の川で細々と採取されており、東・西河内領では押掘役(おしぼりやく)という年貢を納めている。<野沢昌康>














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最終更新日  2019年03月26日 14時40分52秒
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