2021/04/21(水)17:41
異説、日本武尊の東征と酒折宮伝説 参考 『宮下文書』
異説、日本武尊の東征と酒折宮伝説 参考 『宮下文書』
一般的な日本武尊と甲斐の結ぶつきは前記のようであるが、異説もある。日本の歴史は
国史関係書以外は歴史学者も偽書として扱われている。その内の『宮下文書』などはその
最たる書である。
同じ「酒折宮」の記述では『宮下文書』では次のような展開となる。
日本武尊は遂に再び福地山高天原小室家基都谷に凱旋ましまし給ふ。是より先、記太夫
男命は阿田都山の麓に新宮を造り美夜受媛母子を擁護し来れり。皇子大に悦ばせ給ふ。此
新宮は南加茂坂、東阿太都山の麓なるに由り「坂下り宮」と名つける。其夜、記太夫男命
は火を焼きて皇子を慰め奉る。皇子曰く、「にひばり、つくばを、すぎて、いくよか、ね
つる」と、記太夫応えて曰く、「かがなべて、よには、ここのや、こにはとうかを」と而
して皇子は、美夜受媛母子守護の功に依り、記太夫に吾嬬惣国の国造となす。吾嬬惣国と
は、佐加美(相模)・伊須(伊豆)・住留賀(駿河)・海伊(甲斐)・上毛・下毛・阿津
佐・阿波土海・日下地(常陸)・尾久・出羽の十二国なり。
これに依れば『古事記』のいう「酒折宮」というのは、実は阿太都山の麓に新しく造営
した阿祖山太神宮の新宮で、「坂下ノ宮」だったことがわかる。
(『日本の神朝時代』加茂喜三氏著)
偽書とは何をもって位置づけされるのであろうか。『古事記』『日本書紀』は信ずる書
なのだろうか。『古事記』・日本書紀総覧』(新人物往来社)には祟神天皇の御代、紀元
前33年に「刈坂池」「反折池」( )をつくるとある。
景行天皇 年不詳
◇甲斐国造纏向日代(マニムキヒシロ)朝世(景行天皇
御宇)狭穂彦王三世ノ孫臣知津彦(チツヒコ)公此宇
(字当作子)塩海足尼定国造。
(古事記云、沙本毘古王者甲斐国造の祖也)
成務天皇 四年 134 二月
◇詔、国郡に長をたて、県邑に首を置き、幹了者(オサ
ムサシキヒト)をこれに任ずる。
成務天皇 五年 135 九月
◇諸国に令して、国郡に造長(ミヤツコオサ)を立て、県邑に稲
置を置き、ともに盾矛を賜わって、表(シルシ)とす
る。山河を界として、国県を分け東西南北の道に従っ
て、邑里を定める。
仲哀天皇 元年 192 十一月
◇群臣に詔して、父王日本武尊を偲んでその陵域の池に
放つべき白鳥を貢ぜしめる。
◇越国が白鳥四羽を献じる。異母兄弟の蘆髪蒲見別王が
これを盗み、天皇これを誅す。
( )
赤烏 元年 238 五月二十五日
○三珠町大塚の狐塚より出土の市川大門町高田の浅間神社に現蔵する 武川村誌
赤烏元年銘神獣鏡(四神四獣鏡)が中国の三国呉で鋳造されたもの。
○呉の「赤烏元年」(238)の紀年銘をもつ画文帯神獣鏡が、山梨県 日本史年表
○西八代郡の鳥居原きつね塚古墳から出土。 山梨県の歴史
○曽根丘陵の銚子塚古墳(前方後円墳)からは 山梨県の歴史
漢式五面(内行花文鏡・神人竜虎鏡・三神三獣鏡・四神四獣鏡)
が発見されている。
参考 古代東国物語
○唐草四神四獣鏡出土…静岡県浜北経塚古墳・大阪府枚方市万年山古墳
奈良県北葛城郡河合町佐美田宝塚古墳
京都府相良郡山城町椿井大塚山古墳
○獣文帯同四神四獣鏡…「天王月日」京都府相良郡山城町椿井大塚山古墳
「天王月日」岡山県岡山市湯迫車塚古墳
「天王月日」静岡県小笠郡小笠町大塚古墳
奈良県北葛城郡広陵町新山古墳
○獣文三神三獣鏡出土…「月日」 山梨県東八代郡中道町大丸山古墳
「月日」 岐阜県岐阜市打越古墳
千葉県木更津市手古塚古墳
奈良県北葛城郡河合町佐美田宝塚古墳
○二神二獣馬鏡 「張子作」 山梨県銚子塚古墳
群馬県三本木古墳 古代東国物語
岡山県岡山市湯迫車塚古墳 古代東国物語
《註》
…この時代の古道について考えられるのは「陸の道」と「海の道」が考えられる。甲斐へ
の道は百船の度会の国と呼ばれた伊勢国伊勢湾か遠州灘沿岸の磐田付近に着き、更に富士
川を遡行しやがて甲府盆地に出る。富士川の支流笛吹川右岸に銚子塚古墳・大丸山古墳が
ある中道町が見える。 (古代東国物語)
雄略天皇 十三年 469 九月
○木工猪名部真根の死罪を赦す勅使が甲斐黒駒に騎り馳せて、
刑場に至り真根の命を助ける。
あたらしき井の猪名部の匠 懸けし墨縄
其が亡ければ 誰か懸けむよ あたら墨縄
ぬば玉の 甲斐の黒駒 鞍着せば
命死なまし 甲斐の黒駒
推古天皇 六年 598 四月
■聖徳太子善馬を求め甲斐烏駒を得る。
弘文天皇 元年 672 七月 四日
■甲斐の勇者将軍大友吹負の命により近江軍の別将軍慮井鯨を急迫する。
甲斐が嶺を さやにも見しか や 心なく 心なく 古代歌謡集
横ほり立てる さやの中山
■甲斐が嶺
甲斐が嶺に 白きは雪かや いなをさの 甲斐の褻衣( )や
晒す手作りや 晒す手作りや
■甲斐風俗
甲斐人( )の嫁にはならじ 事辛し 甲斐の御坂を
夜や越ゆらむ
■甲斐歌
甲斐が嶺を 嶺越し山越し 吹く風を 古今集
人にもがや 言傳たやらむ
天武天皇 二年 673 寧楽遺文
○大安寺伽藍縁起并流記資材帳
合わせて論じて定むる出挙(すいこ)の本稲参拾万束
右、遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・常陸等の國
右、飛鳥浄御原宮に御宇す天皇歳癸酉に次れる年に
納め賜うてへり。
(あすかきよみはらのみやニあめのしりしめスすめらもこと
みずのととりニやどれる……)
持統天皇 二年 688 五月
○夏五月戊朔乙丑。以百済敬須徳那利移甲斐國。 日本書紀
大宝 二年 702 正月 十日
駅の設置。
二月
○歌斐(甲斐)國、梓弓五百張を献る。以太宰府に充つ。
慶雲 三年 706 二月 十六日
○信濃。越中。甲斐。但馬。土佐五國の十九社、初めて祈年祭 続日本記
(としごいまつり) に幣帛を給わる。(其神名具神祇官記)
和銅 二年 709 三月
○陸奥、越後二國蝦夷。野心難馴屡害良民。於是遺使徴二發遠江。 続日本記
駿河。甲斐。信濃。上野。越前。越中等国。
以左大弁正四位下巨勢 朝臣麻呂為陸奥鎮東将軍。云々
和銅 二年 709 三月
○川内。摂津。山背。伊豆。甲斐五國。連雨損 苗。 続日本記
和銅 二年 709 九月 廿六日
○遠江。駿河。甲斐。常陸。信濃。上野。陸奥。越前。越中。 続日本記
越後國軍士。経征役五十日巳上者。賜復一年。
遺下従五位下藤原朝臣房
前于東海東山二道。検察關□。巡中省風俗。云々
和銅 六年 713 七月
美濃、信濃二國之堺。径道険隘。往還艱難仍通吉蘇路。(木曾路) 続日本記
年不承
○私の故に依り、不破関を度(こ)え本土に赴く(下略) 甲府市史
甲斐國戸□□□人□万呂□ 平城京出木簡
霊亀 二年 716 五月 十六日
○以駿河。甲斐。相模。上総。下総。常陸。下野七國高麗人 続日本記
千七百九十九人。遷于武蔵國。始置高麗郡焉。
▼正七位上馬史伊麻呂等獻新羅國紫驃馬二疋高五尺五寸。 続日本記
養老 三年 719 六月
○遠江國守正五位上大伴宿禰山守管駿河。伊豆。甲斐三國。 続日本記
養老 五年 721 正月
○武蔵。上野二國並獻(献)赤烏。甲斐國獻白狐。 続日本記
六月
割信濃國始置諏訪國。 続日本記
天平 三年 731 三月
廢諏訪國并信濃國。 続日本記
天平 三年 731 十二月
○甲斐國守外従五位下田邊史廣足等所進神馬。黒身白髦尾。謹検符圖 続日本記
曰。神馬者河之精也。授神契曰。徳至山陵則澤出神馬。實合大
瑞者。斯則宗廟所輸。社稷所賜。朕以不徳何堪獨受。天下
共悦。理允恒典。宜大赦天下賑給孝子順孫。高年□寡。□獨不
能自存。者其獲馬人進位三階。免二甲斐國今年庸及出馬郡
調。其國司史生以上并獲瑞人。賜 物有 差。
甲斐國神馬を献る。黒身にして白き髦尾あり。(中略)甲斐國守従五位
下田辺史広足等がたてまつる所の神馬は、黒身にして白き髦尾あり。
(中略)神馬は河の精なり。(中略)甲斐國の今年の庸、及び馬を出せ
る郡の庸調を免ず。其の国司史生以上ならびに瑞を賜うことを差有り。
参考 天平 三年 731
『越前國正税帳』……出羽國 貢馬五疋
参考 天平 六年
『尾張國正税帳』……陸奥國 貢馬六疋
参考 天平 十年 738
『淡路國正税帳』……阿波國 貢馬九疋
天平 十年 738
○駿河國□税帳天平十年□八位上川原田宿弥忍國(中略)
従甲斐國進上御馬部領使山梨郡散事小長谷部麻佐
上一口 上六口
六郡別一日食為單壹拾貳日
従一口 従六口
舊防人伊豆國二十二人。甲斐國三十九人。相模國二百三十人
安房國三十人。上総國二百二十人。常陸國二百六十五人。(中略)
一日食為單壹拾貳日六郡別
上一口 従一口
山師郡小長谷部練麻呂
上六口 従六口