山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/04/18(日)06:07

風雲急を告げる甲斐

甲斐武田資料室(258)

風雲急を告げる甲斐  【筆註】 信濃国を侵攻する織田信忠軍は、日ごとに勢いを増していく。その中で武田累代の家臣たちの離反も相次いでいた。信虎以来信玄に至るまで侵攻。侵略した地方の豪族は、従うことを余儀なくされ、武田信奉ではなく服従し、我慢をしてきた人々も多い。従って武田没落のシナリオが信長によって進むと、いち早く侵略地方の人心は武田から遠ざかって行った。 武田家臣団といっても穴山梅雪の一族は服従より同盟関係にあったことは梅雪の発給した文書によっても明らかである。特に徳川との不審な関係は、勝頼没落の大きな要因でもある、長篠の戦いでは客観的立場にいたことから始まる。梅雪は早くから勝頼離反を着々と進めていたのである。 また家系譜に見られるような記述の中には、事実とはかけ離れたものが多く、とくに勝頼の落日を目前に寝返った武川衆や、後に徳川や上杉その他に就職した数多くの家臣の姿を見るとき、その離反は仕組まれていたのである。哀れなり勝頼である。その最期は悲惨であり、武田滅亡に至った。そうした時でさえも、主君を裏切り、次の就職先の加勢に転じる家臣とは、こうした行為はその後も続き、変り身の早い県民性ともなっている。 (『甲陽軍鑑』)勝頼、家臣の反逆 編著吉田豊氏を中心に(一部加筆) さて天正十年(壬午)正月六日の夜のこと、甲府の阿部加賀守のもとに、木曽義昌殿家中の茅村某より飛脚が到着、木曽殿が信長に従って、勝頼公に叛旗をひるがえしたと報じてきた。 典厩信豊、長坂長閑、跡部大炊助の三人は、これを偽りの報せと考え、その飛脚を監禁したが、やがて事実であることが判明する。  そこで勝頼公は、典厩に対し、木曽路に直ちに向かって義昌を討ちとるようにと命じられた。  阿部加賀守は、 「木曽路とは、そのようにたやすく攻め入ることのできる場所ではありません。まず、私が木曽にむかい、義昌殿の奥方は勝顔公のお妹でありますので、奥方を通じて木曽殿をなだめ申し、その間に典厩殿の手の者を、五騎、十騎ずつよこされるのがよろしいと存じます」  と、申しあげたが、長坂長閑が「それは悪しき儀」と反対したため、典厩信豊殿の部隊が出動、信州鳥井峠において完敗し、神保治郎をはじめ多くの手勢を討たれて引き返した。  そこで勝頼公は、上野、信濃、甲州の兵二万を動員、信州諏訪に陣をはられる。しかし朝に晩に評定を重ねても、軍議はいっこうにまとまらない。 そのうち、勝頼公の叔父上にあたる逍遥軒信廉殿は、配備されていた伊那の地を、勝頼公におことわりせず、さっさと離れて甲府に戻ってしまう。 また典既信豊殿も、五回評定があればそのうち三回は病気と称して現われない。いずれを見ても勝頼公の軍勢は威勢の衰えはてた有様となってしまった。  それでも勝煩公は、 伊那の高遠城に勝頼公御弟の仁科五郎盛信殿、小山田備中守昌行、高天神出身の渡辺金太夫、山県三郎兵衛の従弟の小菅五郎兵衛忠元らを派遣されたのをはじめ、 深志城(松本城)には御旗本侍大将の馬場民部、足軽大将の多田治部右衛門、横田甚五郎などを、 駿州の鞠子(丸子)には信州侍の室賀兵部、 駿州の用宗には朝日奈駿河守への加勢として長坂長閑配下の信州、屋代侍大将関甚五兵衛、駿河の田中には信州侍大将、芦田各々へさし越し給えと下野信守をそれぞれ派遣された。  諏訪の勝頼公の陣には、なお二万あまりの兵力があって、さまざまな評議が重ねられたが、ついにご運も尽きはてたか、軍議をまとめることができぬ状態であった。  そこで、足軽大将、城ノ伊庵景茂の子息・織部の介、当年三十二歳が、弓欠の知恵にすぐれた者であったので、勝頼公に合戦の手だてを次のように申しあげた。 まず、二万の兵力のうちの五千人を、私と横田甚五郎にお預けくだされば、最初の合戦をとげたいと存じます。また五千人を、小山田八左衛門と初鹿野伝右衛門にお預けになれは、彼ら両名の中老は、若い者どもには負けないとばかりに奮戦するでありましょう。残る一万余人の兵を、小山田兵衛尉信茂、真田安房守、小幡上総に仰せつけられ、お産形様が総大将となってご一戦なさるならば、このたび信長は攻めこんでくる敵ゆえ、よもや柵を結うこともございますまい。  勝頼公はこの意見をもっともと思われ、長坂長閑にご相談になったが、長閑が、「あのような若い者の申すことをおとりあげになるとは、いよいよご運の―――」とお答えしたので、そのままになってしまった。  その後、阿部加賀守も、「わが配下の間者に敵の軍勢を偵察させましたところ、あちらこちらに陣をとり、統制がとれておりません。信長方の川尻与兵衛秀隆、滝川伊予守にまず夜討をかければ、造作なく切り崩すことができましょう」などと申しあげたが、長坂長閑は、とんでもないことと反対、勝痺公も長閑の意見をお聞き入れになって、他の者の申しあげることはおとりあげにならなかった。

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