山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/04/14(水)06:16

奉天会戦と日本海海戦

日本と戦争(80)

奉天会戦と日本海海戦   著者 池田敬正氏・佐々木隆爾氏     『教養人の日本史(4)』社会思想社 昭和42年刊 一部加筆   一方には日本軍二五万、砲九九二門。総司令官大山巌はこう訓示していた。 「土地を略し塁蹔(るいぎょ)陥れるは、この大作戦方針の主眼にあらず。多大の損害を敵に与え、敵をしてまた立つ能(あた)わざらしむべし」 他方には三二万のロシア軍。クロパトキン大将は 「此度の合戦においては決して退却を許さず、退走するものは日本兵の武器に斃(たお)れずして、退走を罰する刀剣の錆となるべし」 と命令した。一九〇五(明治三八)年三月一日、奉天での決戦は火蓋(ひぶた)を切った。 戦争開始から一年余、戦闘はロシア軍陣地の攻防をめぐって、次第に北上してきた。いずれも満州支配のための拠点である。南山の戦いを皮切りに、日本軍は、一九〇四年七月には得利寺の遭遇戦に勝ち、八月末から遼陽のロシア軍陣地を攻撃した。同時に遼東半島の南端旅順要塞の攻撃を開始した。旅順はて一月の二〇三高地占領で大勢が決まり、翌一月一日に降伏させることに成功した。参加した兵力一三万人、そのうち五万九〇〇〇人が死傷するという犠牲が伴っていた。北部戦線は、沙何の戦いの勝敗が決まらないまま、対侍の状態で冬営に入った。 一月に入りロシア軍は、日本軍の戦闘体制が整備される機先を制するために、一〇万の兵をもって猛攻に出、黒溝(こくこう)台の会戦を挑んだ。激闘五日の末、ロシア軍は退却したが、日本車も九○○○人の死傷を出していた。 日本軍は、決戦に出てロシア軍に大打撃を与え、戦局を終わらせる他ない情勢に立たされるようになった。将校の戦死が相つぎ、兵士も精鋭部隊を補充する見込みがつかなくなり、また武器の製造と補給が限界に達し、砲弾も全軍で二〇数万発を残すだけとなった。そのため、一師団を除く全兵力を満州に集結し、奉天での決戦を企てたのである。 戦闘は一週間におよび、日本軍の死傷は七万、ロシア軍は九万にのぼった。クロパトキンは、戦力も増強を待ち、ハルピンの決戦を期して退却し、日本一軍は奉天を占領した。しかし、追撃する余力はなく、戦局を決しないまま、昌図・関原の線で停止を余儀なくされた。 ロシア軍は、バルチック艦隊の応援を得て、ハルピンで日本軍を殲滅する作戦に出た。五月二七日バルチック艦隊は対馬沖に姿を現した。長期の一航海と革命や相つぐ敗戦に、士気の衰えた艦隊は、司令官東郷平八郎の率いる日本の連合艦隊に、二昼夜の激戦の末、一九隻を撃沈され、全滅した。ハルピンの決戦は絶望的となった。講和交渉は急速に本格化した。戦争に動員された日本兵は一〇七万人、うち死傷者だけでも二一万人であった。  

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