カテゴリ:白州町・武川町 歴史文学史蹟資料室
白州町【明治神宮に神宮川の玉砂利奉納】
駒ヶ岳山塊より流れ出す神宮川は、その主体を構成する花崗の砂利を川床いっぱいに堆積して白砂の川となって、緑なす両岸の林の間を縫って流れ下る。両岸附近は古くから白須の松原としてその自砂青松の景を誇った所である。松茸の産地としてもその名をとどろかした場所でもあったが、戦時中の伐採によって松林はその美しい姿を失ってしまった。 この神官川の玉砂利は古くから明治神官に献納されて本殿の庭に敷かれ、荘重な神官造営の一端を担っている。明治神官の記録に次のように記されている。 「大正九年十一月、内院(本殿)造営のため山梨県北巨摩郡菅原村濁川(今の神官川)産玉砂利四袋献納。」 「昭和二年四月十一日 菅原青年団長名取武三郎氏外四名により玉砂利を献納。」 爾来昭和十九年まで毎年つづけられた。戦争のため昭和二十年より昭和三十一年まで中断したが、昭和三十二年神宮復興のため再開され今日にいたっている。そのとき神宮よりの文書は次のようであった。 「先般御打合せ頂きました玉石、玉砂利の件につきましては公私御多用中の処誠に恐縮ではありますが、神官創立以米の御縁故により是非共万事都合よく進捗する様何卒格段の御懇配御願い申上げます。末筆ですが関係各位によろしく御伝への程願い上げます 敬具 昭和三十二年十月十九日 明治神官 福島信義 白州町 古屋五郎殿 毎年白州中学校生徒の奉仕によって、夏休みを利用して神宮川に出て、 一つ一つ真心をもって拾い集めた玉石や砂利が明治神官の神苑に敷きつめられたのである。 昭和四十三年十一月一日発行の明治神官崇敬会々報に次のように掲載されている。 「山梨県北巨摩郡白州町の白州中学校では、明治神官御鎮座以来続いている伝統の自玉砂利採取献納行事を地元青年団より受け継いで本年も夏休み中に、同町松原の濁川で全校あげて暑さにもめげず一つ一つ心を込めて採取作業の奉仕を行なったが、十月十四日同町役場の山田助役、小林総務課長をはじめ堀内校長以下男子先生全員が上京し、神宮拝殿内の斉庭で自玉砂利敷替え作業を奉仕した 明治神宮への玉砂利奉納は正しくは玉石奉納であり、最近では神宮川周辺の河川荒廃により、丸石の姿は見えない。この事業は白州町以前の菅原村の行政一環事業として実施されていた。その後中学生の参加もあり地域の行事として親しまれていた。この事業は今でも行政が舵取りをしている。なぜか切り離せない事情があるようだ。最近では民間団体や地域各種組織より石拾い要員が参加している。 さて話を本題に戻す。駒ヶ岳山塊より流れ出す神宮川は、その主体を構成する花崗の砂利を川床いっぱいに堆積して白砂の川となって、緑なす両岸の林の間を縫って流れ下る。両岸附近は古くから白須の松原としてその自砂青松の景を誇った所である。松茸の産地としてもその名をとどろかした場所でもあったが、戦時中の伐採によって松林はその美しい姿を失ってしまった。最近では上流の荒廃や土砂崩れが確認され、下流には毎日多くの流砂が認められる。 【奉納の歴史】 この神官川の玉砂利は古くから明治神官に献納されて本殿の庭に敷かれ、荘重な神官造営の一端を担っている。明治神官の記録に次のように記されている。 「大正九年十一月、内院(本殿)造営のため山梨県北巨摩郡菅原村濁川(今の神官川)産玉砂利四名献納。」 「昭和二年四月十一日 菅原青年団長名取武三郎氏外四名により玉砂利を献納。」 爾来昭和十九年まで毎年つづけられた。戦争のため昭和二十年より昭和三十一年まで中断したが、昭和三十二年神社復興のため再開され今日にいたっている。そのとき神官よりの文書は次のようであった。 「先般御打合せ頂きました玉石、玉砂利の件につきましては公私御多用中の処洵に恐縮ではありますが、神官創立以米の御縁故により是非共万事都合よく進捗する様何卒格段の御懇配御願い申上げます。末筆ですが関係各位によろしく御伝への程願い上げます 敬具 昭和三十二年十月十九日 明治神官 福島信義 白州町 古屋五郎殿 毎年白州中学校生徒の奉仕によって、夏休みを利用して神宮川に出て、 一つ一つ真心をもって拾い集めた玉石や砂利が明治神官の神苑に敷きつめられたのである。 昭和四十三年十一月一日発行の明治神官崇敬会々報に次のように掲載されている。 「山梨県北巨摩郡白州町の自州中学校では、明治神官御鎮座以来続いている伝統の玉砂利採取献納行事を地元青年団より受け継いで本年も夏休み中に、同町松原の濁川で全校あげて暑さにもめげず一つ一つ心を込めて採取作業の奉仕を行なったが、十月十四日同町役場の山田助役、小林総務課長をはじめ堀内校長以下男子先生全員が上京し、神宮拝殿内の斉庭で自玉砂利敷替え作業を奉仕した」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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懐かしい思い出w
(2021年02月24日 10時14分48秒)
ご苦労様でした。私もよく覚えています。みなさんの努力で今では明治時では『白州』といえば理解してもらえるほどになりました。昨年100周年事業もおこなわれました。今では丸い石が少ないために一は機械で丸くしているようです。
これからも頑張ってください。また折には神宮の玉石を踏みしめてください。 (2021年03月01日 06時01分05秒)
山口素堂さんへ
奉行の甘利隊に、横鑓をつけよ、と御命令になったので、甘 利隊の米倉丹後(重継)は小荷駄を捨てて酒井隊に側面から 攻めかかった。左衛門尉勢はこうして崩れ、敗走する。信玄 公の御旗本、協備、後備の各隊は戦闘には少しも加わらず、 見物のようにひかえていたが、家族はおくれをとってついに 敗北した。 この合戦で、甲州勢は、先鋒、第二陣、合わせて十四隊だけで 家康勢に勝利した・信玄公は、おそらく信長軍が今切(詰四) のあたりに待機して第二の合戦をたくらんでいるはずだと仰 せられた。協働が正面に繰り出し、後備を協備に配置がえを 行な嶮貳(認詔能諸貿ごをた矢本貧(頷詰四辺)を 焚いて待ちかまえておられたが、敵は再び攻めてはこなかっ た。この合戦で、第一線の山県隊は、五千の兵力で戦った が、敵の首を取った数は十三に過ぎなかったけれども、第二 障の勝頼公は干に足hソぬ部隊で六十三の首をとる。元亀三年 壬申(一三七二)十二月二十二日、遠州三方ケ原の御合戦と はこれである。法性院信玄公が五十二次の御時であった。以 上。 (2021年05月13日 05時22分09秒) |
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