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明智光秀像の虚像を再考する 『歴史研究』545号・2006・10 特集/明智一族の謎 富田誠一氏著(東京都会員) 一部加筆 白州ふるさと文庫
明智光秀は、美濃の土岐氏の流れをくむが、豪族であった父光綱が早死し、さらに後見人の叔父光安も合戦で討たれており、幼なくして戦国の世に投げ出され、長い不遇な諸国遍歴の果てに、永禄十一年(1568)織田信長に見いだされる。 それから約十年、光秀は、信長のもとで戦国武将として有能さを発揮し、またたく間に丹波一国と近江国の滋賀郡を与えられているが、これは異例の出世であった。
その光秀が信長に謀反を決意させた動機としては、いくつかあげられている。 (一) 信長にたいする恨みとは無関係で、戦国武将がだれもが抱く天下を取りたいとする野望があったとする「野望説」 (二) 丹波平定の戦いで光秀の軍勢が波多野氏の居城八上城 (兵庫県)を攻めた際に波多野氏兄弟の 投降を勧め、信長のため義母を人質にいれ、兄弟を信長に送ったところ信長は両人を殺害する。こ の報復として母が磔(はりつけ)にされ、「心を無視された恨み説」 (三) 桑田忠親氏が主張される光秀が徳川家康の安土での饗応の際の備中出陣を命ぜられ、将来出雲と 石見を切り取り授けると沙汰されるが、失敗すれば現在の領地は没収され、自分が滅びるか否かの 瀬戸際にたった「不安な心理状態とする説」
光秀は、反逆に踏みきり信長を討ったが、その後十日余りで、本拠の坂本へ向かう途中、農民の一本の竹槍により脇腹をえぐられて五十五歳で死亡する。 当時における光秀への評価は、主君の織田信長を殺した逆臣・悪臣で「三日天下」の蔑称は、思慮分別のない、功名心にはやった小さな人間像を思わせるものであった。 しかし、信長は光秀の行政や民生の面での政治力・経済力を高く評価し、能力的にすぐれていることを見抜いていたと思われ、近畿一円の官僚とし支配させていた。
光秀は、 天正三年(1575)信長に丹波攻略をゆだねられて以来、 天正七年(1579)六月にはほぼ丹波平定を終え丹波一国を所領とする。さらに 天正九年(1581)山陰と京都を結ぶ交通の要衝・福知山に近代的様式の城をつくり、救民を集注させた城下町や治水工事、町の縄張り、商業政策に力を注ぐなどの行政手腕を発揮した。現在もこの町には、光秀の所領時代における町の縄張りが残されている。
この地域の住民の間には、かつての領主光秀にたいする思慕の念がみられる。
その一つに光秀をまつる御霊神社がある。この神社は、光秀の逆臣・悪臣の名をはばかって表向きの祭神はお稲荷様としているが、明智の紋である桔梗紋がずっと用いられてきた。 地域の人々は、四百年余の間、光秀を優れた行政官として敬慕し、善政を感謝してきたものと思われ、封建制のあの厳しい徳川時代から今日に至るまで、その善政をしのんで「光秀をまつる祭り」が続けられ、祭礼の踊りも奉納されている。 さらに光秀にまつわるエピソードとして、三浦綾子さんの著書によれば、死後の巷間に伝わる流説がみられたとある。 (一) 光秀は、徳川家康が帰依し側近グループの一人となった天海大僧正(後に慈眼大師を贈られる)とするもので、確かに天海の前身は明白ではないとされている。 (二) 光秀が、茶道の大成者として草庵茶室と詫び茶を完成した千利休(宗易)であったとするものもみられた。利休もまた前身が詳らかでないとされている。
英雄生存伝説が巷にささやかれるのは、悲劇的な最後をとげた人物にたいして、生き続けて欲しいとの願いが結実したもので、光秀も三日天下に終わり、農民に殺害されたことを惜しむ思いが人々の間に深く刻まれたものといえよう。 天海大僧正や千利休に光秀の面影をみていることは、光秀がいかに非凡な武将であったかを示していると思われる。 辻邦生氏は、光秀があのような特異な事件により自分の生涯を閉じた人間として感ずるのは、人間の苦しみ、人間の中の葛藤といったものを常に持ち続けたのではないかとされているが、おこした事件と所領とした地域に住む人々との感慨の間には大きな開きがあることをみると、その見解に賛意を表したいと考える。
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最終更新日
2020年05月31日 23時13分30秒
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