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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2022年03月28日
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シーボルト 江戸参府紀行(1)

  初版第1刷発行 1979年7月15日
  訳者 斎藤 信 さいとう まこと

  東洋文庫87
  発行者 下中邦彦
  株式会社 平凡 
  株式会社平凡社
  
 斎藤 信氏略歴
  明治44年東京都生まれ。
  東京大学文学部独文科卒(昭12)
  名古屋市立大学名誉教授。
  現職(著 当時) 
  名古屋保健衛生大学教授。蘭学資料研究会会員。
  専攻 ドイツ語。オランダ語発達史。
  主著『Deutsch fUr Studenten』。
  主論文「稲村三伯研究」など。

  一部加筆 山梨県歴史文学館

 凡例
 
一、本書はフィリップ・フランツ・フォン・ジーボルトの
『日本、日本とその隣国および保護国蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島の記録集』
の第二版、
 原名。NIPPON. ArchivzurBeschreibuag
 1897の第二章『一八二六年における将軍の居城への旅』
   すなわち『一八二六年の江戸参府紀行』。
   
本文中に用いた( )はすべて原文にあるもので、主としてジーボルトが原著において用いたローマ字による日本語を示すものが多い。
 従ってローマ字の綴りが今日のそれと異なるものも少なくない  し、明らかに読違い、あるいは書誤りと思われるものもあり、頭字の大小などもすべてもとのままにしておいた。異なる点としてはたとえばSなどは所によってサ[S]と読ませたり、ザ「旨」と読ませたりしている。
一、訳注は一括して巻末に掲げたが、文章の説明や補いなど簡単なものは、本文中に〔 〕を用い六号活字で示してある。
 またジーボルが用いた年月日はもちろん太陽暦によるものであるが、日付の下の〔 〕内に当時日本で用いられていたものを「旧」として加えてある。

一、
本文中に掲載した図版は、原著にある図版をすべて収録したが、一六七ページの鋳型の図のみ、国立国会図書館文部東洋文庫所蔵のジーボルト稿本『一八二六年、江戸参府旅行中の日記』から複写して転載した。
一、
最後にSieboldをどう読むかの問題がある。当時の日本人はオランダ語流の発音でもちろん「シーボルト」と言ったはずだし、また  
南ドイツ人は一般に有声音の「S」を知らないから、彼自身も無声音の・・[一]と発音したに相違ない。わが国の歴史教科書・人名辞典・百科事典などもごく少数をのぞけぱ、すべて「シーボルト」と表記してあってすでに一般化されてはいるか、ここでは本来の発音に近づける意味であえて「ジーボルト」を用いることにした。


  一八二六年(文政9年)の江戸参府紀行の序

概要

……旅行の準備
……江戸滞在の延長計画
……蘭印政庁の後援
……日本人との深い理解・公使の不機嫌
……和蘭使節の一行
……日本の通詞およびその他の従者の描写
……使用人
……旅行具ならびに他の機具類の装備
……和蘭使節の特権
……ヨーロッパの使節に対する日本的格式の不適当な応用
……旅行進捗の方途・駕寵・挿箱・荷馬・荷牛・駕寵かき
・荷物運搬入についての記述
……郵便制度・運搬人および馬に対する価格の公定
……郵便および飛脚便
……狼煙打上げ式信号
……旅館および宿舎
……浴場
……茶屋など
……国境の警備
……橋
……航海および航海術・造船・造船所・港
……河の舟行
……運河
……堤防

 私が日本へ派遣されることになったので、1826年(文政9年)に予定されている江戸旅行は、自然科学ならびに地理学・民族学に関して興味ある成果をあげるものと期待された。二年あまりの出島の生活は、こういう問題を解決するのに必要ないっさいの準備のための時間と機会とを払に与えてくれたので、その期待はいっそう大きかった。目の前に迫っている旅行からできうる限りの収穫を得ることが大切で、私は旅行者が興味を抱きそうなすべてのものをあらかじめ心得ておくことに全力を傾けた。

 この国の地理・住民の言語・かれらの風俗習慣を、私は教養ある日本人との交際を通じて調べておいた。
私自身の小旅行はさし当たっては九州のせまい……地区……長崎の近郊に及んだ程度に過ぎなかったが、遠い国々の事情に通じている医師たちが私にその地方の天産物を教えてくれた。彼らは自然科学や医学について私の講義を受けようとして、日本の各地からやって来て、自分たちの先生に博物標本や動植物の図譜や書物などを贈った。
私の生徒たちは生きているのや乾燥した植物の収集物を、また動物や鉱物をこの国のあらゆる地方から熱心に集めてくれた。
新しく到着した医師の名声にひかれて長崎に集まって来た数百の患者は、自分たちの眼にとまった珍しい博物標本をさし出して、医師の積極的な援助を確約しようとした。
海棲動物を集めるには、長崎の港はこれ以上を望むことができないほど地の利を得ていた。とにかく魚類やカニ(蟹)類など魚市場で見つけだすことのできるものは、私の観察の、さらに知識欲に燃えている弟子たちの研究の対象ともなった。
また数人の猟師を鳥や獣を捕えるために雇い入れておいたし、昆虫採集の目的でほかの人々を仕込んでおいた。
出島では植物園を造ったが、私の多方面にわたる交友関係のおかげで、まもなく約千種にのぼる日本と支那の植物を数えるにいたった。このようにして、私は日本列島の動・植物群を知ったのである。
また蝦夷や千島についてさえ、私が重い病気を直してあげたある高貴な日本人を通じて、博物学および民族学上の資料の貴重なコレクションを手に入れた。
 国土とその産物について得た知識・国民の文化程度・商工業・国家や国民の施設についての私の見聞をあらゆる方面に広げることが、いまや来たるべき江戸旅行の主目的であった。
けれどもこの旅行には種々の制約があって、私は自由に研究しその領域を広げようと切に望んでいたのであるが、そういうことは期待できなかったから、使節派遣が終わったのち、なおしばらくの間しかも国費で江戸に滞在し、将軍家の医師に博物学や医学を教えることを口実にして、状況次第でそのあと日本の国内を旅行しようという計画をたてていた。
長崎奉行や江戸在住の身分の高い二、三の庇護者の影響力と、すでに医師としてまた自然科学者として立てられていた高い前評判とは、江戸幕府がこの計画に承諾をあたえるであろうという期待をいっそう確実なものにした。
それに関連して日本人にあたえられる利益も莫大なものだったからである。
 私からこの計画の知らせを受けた蘭印政庁は、これに同意し、私の特別な研究対象恚なるものを詳しく指示した命令を私によこしたばかりでなく、商館長でこの度の使節ヨハン・ウィレム・ドヴ・スチュルレルに、私の江戸における日程外の滞在費とその後の旅費を蘭印政庁の金庫から支払う権限をあたえ、さらにまたこの計画ならびに私の学問的企画一般に対し、公使の権限をもって強力に私を支援するよう、特に依頼してきた。
 また、助手と画家各一名の必要をのべた私の申し出に対して同意が得られたのも、蘭印政庁の同じように寛大な決定のおかげであった。それで
ハインリヒ・ピュルガーとフーベルト・ドゥ・フィレネーフの両氏が日本に派遣されて来たのである。
ジャワのわれわれの病院で以前薬剤師をしていたビュルガー氏には物理学・化学および鉱物学の部門をまかせたが、彼は特別な情熱を傾けてその方面の仕事に励んだ。
一方、出島商館の職員に任命されたフィレネーフエ氏は絵をかくことを受け持った。この両氏は私が研究を続けてゆく間、よく期待に応えてくれた。

 オランダの船舶は……周知のように毎年わずか二艘だけ貿易のために一寄港することを許されていたのだが……1825年12月には帰りの荷を積んでバタヴヂアヘ向け出帆してしまい、ふつう8月から12月に至る貿易の期間には種々の業務で中断される、あの単調な静けさを出島の住人は再びとりもどしたのだが、ちょうどそういう特期にわれわれは江戸旅行の準備にとりかかった。われわれの旅行が行なわれる状況は独特である。
オランダ人は一方では外国人としての制限を受け、一挙手一投足を不安げに見守られるという、そんな監視のもとにあった。
しかし他方ではまた多くのことがわれわれの態度、とくに案内者との協調如何にかかっていた。
たとえ公の手段ではないにしても、内々に、つまりBinnenkant(裏面)の工作で、かなり多くのことがわれわれの利益となるように変更され、われわれの自由を束縛していた制限が除かれるかもしれないのである。
このBinnenkailtという言葉は、BUitenKanyt(表面)の対語として日本の通詞たちがさかんに使うのである。            ‐                               ’ 。
私は旅の道づれとなる日本人をよく知っていたし、そのうちの何人かとは親しく付き合っていた程である。ちょうど彼らが旅行の準俸におわれていた時に、私がちょっとした好意を示すと、彼らはなおさら私の意を迎えようとした。その結果私が目前に迫っている旅行に関して、彼らの世話好きに多くの期待をかけたのは当然であった。
使節の案内をする給人はすでに8月中に江戸から長崎に着いていたが、日本の友人たちは私をその人に紹介しようとした。私が引き合わされた時に、私は全力を尽くして私個人のことや私の学問上の意図に対する彼の関心を呼び起こそうとした。
われわれを案内する日本人の側から私はきっかけを見つけだして、いちばん好都合なことを、すなわち制限された状態を緩和し、自然科学およびその他の研究を行なう機会を与え、そしてできる限り援助を借しまぬという約束をとりつけてしまったのである。     
私が公使ドゥ・スチュルレル大佐から期待したものは、そんなものではなかった。
私は悲しい思いでそのことを告白せざるをえないのであるが、この男はジャワにおいては私の使命に対してたいへん同情をよせ、非常な熱の入れ方で援助を借しまなかったのに、今この日本に来てしまってからは、みずから私の企てに関連していたすべてのことに対して、ただ無関心であったり冷淡であったばかりでなく、無遠慮にも妨害を続けて頓挫させ、困難におとしいれようとさえしたのである。このような不機嫌の原因は何にあったのか。
政庁の指示によって私の活動範囲が拡大され、私の学問研究にこれまで以上の自主性が重んじられたことによって、よしんぱ彼自身の計画に齟齬(そご)を来たさなかったにせよ、おそらく彼の利害関係を損ったことに、その原因があったのか。
あるいは貿易改善のために彼が行なった提案に対して、政庁があまり都合のよくない決定を下し、それがもとで不満もつのり、それに病弱も加わって、こうした変化をひき起こしたのかどうか、私には判断を下すことができない。しかしいずれにせよ、彼が最初に日本研究のための私の使命と準備とに対して寄せていた功績は、何といっても忘れることができないのである。そして、私は感謝の念をこめてそれを認めるのにやぶさかではない。
もしドゥ・スチルレル氏が彼自身の使命のもつ立派な目的と、政庁がそれにかけていた計画とを注意深くじっと見守り、忍耐強く実行していたら、彼の日本における滞在と江戸の将軍家に対する使命とは、貿易の促進およびさらに大きな自由の獲得のためにとった処置と同様に、それ相応の成功をおさめていたであろうし、これらのことは日本とオランダの貿易史上においてひとつの光輝ある時期を画したことであろう。
 先例によると、江戸旅行のわれわれ側の人員は、公使となる商館長と書記と医師のわずか3人ということがわかっていた。私はできることならビュルガー氏とドウ・フィレネーフエ氏を同伴したかったのであるが、今度はとても無理であった。そこでいろいろ面倒な手だてを重ねて、やっとピュルガー氏を書記の肩書で連れていくことが許されるようになった。日本人随員の身分についてはなお若干の所見を加えさせていただきたい。
私は、われわれの旅行中種々の状況のもとで登場する通詞たちを読者諸君に紹介するが、その輪郭はとくに興味深いものではない。しかしこうした職業の人々は代々ヨーロッパ人との交際によって、長所も少なくはないが、短所の方をずっと多く受け継いでいるので、彼らを本来の日本人と混同してはならないということを、私はあらかじめ注意しておきたい。

大通詞

本来の日本人は外国人との交渉もなく、自国の風習に応じてしつけられ教育されているので……出島でわれわれと交際しているこのような日本人と通詞とが話題にのぼる場合には、こういう相違にいつも留意しなければならない。
 この旅行で重要な役割を演じ、現金の出納を担当し、給人と連帯して政治・外交の業務を行なう大通詞として末永甚左衛門がわれわれに同行した。60歳に近く、立派な教養といくらかの学問的知識をもっていた。彼はオランダ人との貿易には経験も多く、さらに貿易にかこつけて巧みにそれを利用した。
日本流の事務処理にすぐれた能力があり、賢明で悪知恵もあった。また同時に追従に近いほど頭も低く、洗練された外貌をもち非常に親切でもあった。そのうえ物惜しみはしないが倹約家で、不遜という程ではないが自信家であった。甚左衛門は、出島にいる大部分の同僚と同じように、少年時代に通詞の生活にはいり、オランダの習慣に馴れていて、通詞式のオランダ語を上手に話したり書いたりした。フォン・レザノフおよびフォン・クルーゼンシュテルンの率いるロシアの使節が来た時(1804~05年)に、特にペリュー卿の事件(1890年)の際に、彼は幕府のためにたいん役に立ったので、長崎奉行の信望もあつく、恵まれた家庭的な境遇のうちに暮らしていた。
彼は小柄で痩せていたし、少し曲がった鼻と異状な大きさの眼をし、顎(あご)は尖っていた。非常に真面目な話をする時に、彼の口は歪んで微笑しているような表情となり、普段はそういう微笑でわざとらしい親愛の情をあらわすので、鋭い輪郭をした彼の顔は、なおいっそう人目をひき、目立つのである。彼の顔色は黄色い上に土色をおびていた。剃った頭のてっぺんは禿げて光り、うえに上を向いた薄い髷(まげ)がかたく油でかためて乗っていた。

 小通詞は岩瀬弥十郎といった。彼は60歳を少々越していて、体格やら身のこなし方など多くの点でわれわれの甚左衛門に似ていた。ひどいわし鼻で、両その方の眼瞼(まぶた)はたるみ顎は長く、口は左の笑筋が麻痺していたので、いつもゆがんで笑っているように見えた。大きな耳と喉頭の肥大は彼の顔つきを特徴づけていた。彼は自分の職務に通じていて精励し、旧いしきたりを固くまもった。彼は卑屈なくらい礼儀正しく、同時に賢明だったが、ずるささえ感じられた。しかしそれを彼は正直な外貌でつつんでいたし、また非常にていねいなお辞儀をし、親切で愛想もよく、駆け足と言ってよいぐらいに速く歩いた。
 彼の息子の岩瀬弥七郎はたいそう父親似であった。ただ父は病気と年齢のせいで弱かったのに対し、息子の方は気力に欠けた若者だった点が違っていた。そうはいうものの噂では彼は善良な人間で、お辞儀をすることにかけてはほとんど父に劣らず、何事によらず「ヘイヘイ」と答えた。彼は世情に通じていたし、女性を軽視しなかった。女性だちといっしょにいるとき、彼はいつでもおもしろい思いつきをもっていた。またわれわれに対してはたいへん親切で日常生活では重宝がられた。彼は今度は父の仕事を手伝うために、父の費用で旅行した。
 公使の私的な通訳として、野村八太郎とあるが、NAMURA(名村)の誤り〕とかいう人がわれわれに随行した。当時われわれと接していた日本人のうちで、もっとも才能に恵まれ練達した人のひとりであったことは確かである。彼は母国語のみならず支那語やオランダ語に造詣が深く、日本とその制度・風俗習慣にも明るく、たいへん話好きで、そのうえ朗らかだった。彼の父は大通詞だったが、退職していた。だから、父が存命していて国から給料をもらっている間は、息子の方は無給で勤めなければならなかったし、そのうえ息子八太郎は相当な道楽者だったから、少しでも多くの収入が必要だったのに、実際にはわずかしかなかった。信用は少なく、借金は多かった。二、三のオランダの役人と組んで投機をやり、いくばくかの生計の資を得ていた。彼自身はお金の値打ちを知らなかったが、お金のためにはなんでもやった。われわれの間で彼を雇ってやると、たいそう満足したし、それで利益があると思えば、いつもどんな仕事でもやってのけた。彼は痩せていて大きな体格をしていた。幅の広い円い顔にはアバタがいっぱいあったし、鼻はつぶれたような格好をしていたし、顎は病的に短く、大きな口の上唇はそり返り、そこから出歯が飛び出して、彼の顔の醜さには非の打ちどころがなかった。
 日本人の同伴者のうちで最も身分の高い人物は給人で、御番上使とも呼ばれ、出島ではオッペルバンジョーストという名で知られていた。彼の支配下に三人の下級武士がいて、そのうちのひとりはオランダ船が長崎湾に停泊している時には見張りに当たるので、船番と呼ばれていた。それからふたりの町使で、これは元来わが方の警察官の業務を行なう。船番の方は出島では、普通オンデルバンジョーストは「下級」の意〕と呼ばれ、町使の方は出島の住人にはバンジョーストという名でと名づている。長崎奉行の下には通常一〇名の給人がいる。大部分は江戸から来ている警察官〔役人のこと〕で、公務を執行している。彼らは国から給料を受けていない。彼らが役所からもらっている給金はごくわずかだが、彼らが……合法と非合法とによって受けとる副収入はなおいっそう多かった。貿易の期間中、彼らは出島で交替に役目についた。彼らは重要な業務において奉行の代理をつとめるから、貿易並びにわれわれ個人の自由に対し多大の影響を与えた。輸出入に関しては彼らはわれわれの国の税関吏と同様に全権を委ねられ、従って密貿易の鍵を手中におさめていた。そういうわけだから、彼らは奉行所の書記や町年寄の了解のもとで、密輸に少なからず手加減を加えた。
長崎奉行のこういう役人のひとりが例の給人で、今度の旅行でわれわれに随行することになっていた。役所は彼に厳命を下し、その実行に責任をもたせ、彼に日記をつけさせ、旅行が終わったとき提出させた。われわれに同行するそのほかの武士や通詞たちも、互いに監視し合う目的で日記帳を用意しておく責任があった。それゆえ
彼らは手本として、また旧習を重んずる意味で以前の参府旅行の日記を携えてゆき、疑わしい場合にはそれを参考にして解明していくのである。我々は我々と行をともにする給人一名をカワサキ・ゲンソウ(Kawasaki GenzO)といった……を賢明で勇気ある男として知り合っていた。彼の部下たちは彼を手本として行動した。上述の通詞
や武士たちのほかに、四人の筆者と二人の宰領・荷物運搬人夫の監督一人・役所の小使7人・われわれのための料理人2人・日本の役人の仕事をする小者31人と料理人1人、従って随員は日本人合計57名であった。
 
われわれの従者は誠実で信用のおける人々であった。彼らは若いころから出島に出仕していた。彼らのうちで年輩のものは、かつて上司の指揮のもとでこういう旅行に加わった経験があって、旅行中すばらしく気転がきき、職務上や礼儀作法にかかわるいっさいに通じていた。また彼らは、わかりやすいオランダ語を話したり書いたりした。
 私の研究調査を援助してもらうために、私はなお2、3の人物を遮れて行った。彼らのうち一番初めには高良斎をあげるが、彼はこの2年来私のもっとも熱心な門人に数えられていたひとで、四国の阿波出身の若い医師であり、特に眼科の研究に熱心であった。けれども私か彼をえらぶ決心をしたのは、日本の植物学に対するかれの深くかつ広範な知識と、漢学に造詣が深くオランダ語が巧みであったこと、さらにまた彼が信頼に値し誠実であったからである。彼は私によく仕えた。私が多くの重要なレポートを得たのは、彼のおかげであるといわざるをえない。画家としては登与助か私に随行した。彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は私の著作の中で彼の功績が真実であることを物っている。
乾譜標本や獣皮の作製などの仕事は弁之助とコマキ〔これは熊吉の誤り〕にやらせた。私の召使のうちのふたりで、こういう仕事をよく教えこんでおいたのである。
これらの人々のほかにひとりの園丁と三人の私の門人が供に加わった。それは医師の敬作・ショウゲン・ケイタロウの三人で、彼らは助手として私に同行する許可がえられなかったので、上に述べた通訳たちの従者という名目で旅行に加わった。彼らは貧乏だったので、私は彼らの勤めぶりに応じて援助してやった。私は2、3人の猟師を長綺の近郊でひそかに使っていたので、できれば連れて行きたかったのだが、狩猟はわれわれの旅行中かたく禁じられていた。

  旅行の準備 

 さてわれわれの旅行の準備についていうと、われわれは家庭的ならびに社交的生活を営むのに便利で必要なすべての品々を充分用意していた。使節は新式の家具や立派な食器類や銀器やガラス器を持って行かせた。またわれわれは……つまりビュルガー氏と私は種々の贅沢品ととくに贈物に適した品物を準備し、またわれわれの目的にかなうよう充分に整備した。
バロメーター・高度測定用のトリチェリのガラス管・湿度計および寒暖計のほかに、われわれはロンドンのハットン・アンド・ハリグ社製のクロノメーター・副尺が付いていて一五秒を読みとることができる同じくロンドン製の六分儀・精巧な水準器と羅針儀・ガルバニー電気治療器および二、三の組立て顕微鏡などを持って行った。あとの品々は小型のピアノといっしょに日本の学者やヨーロッパの技術および科学の入門者に見せるのが狙いだった。
なおよく整備された携帯用の薬品とごく普通の外科の手術用具をそれに加えた。
 礼儀作法や外観の立派さにとくに注意をはらう日本人のような教養ある民族にあっては、使節は品位とヨーロッパ的な華麗さを身につけて振る舞い、単に自分たちの国民を代表するばかりでなく、自分たちの風俗が洗練され進歩していることをはっきりと見せることが確かに必要である。
われわれオランダ人のほかに他のどんな外国人に対しても入国が許されていない場合には、なおさらそうである。商業上というよりはむしろ政策上の利害から、たがいに意を迎えようとしている文明化された二国民の出会いは、双方の風俗習慎のいちじるしい相違によって、使節の態度や一挙手一投足をいちだんとむずかしくする。彼の行動が民族性や国民性に関係があるときには、公然たる批判にさらされないうちならば、慎重すぎるくらいよく考え、できるだけ抜け目なく形にあらわすにこしたことはない。





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最終更新日  2022年03月28日 04時56分03秒
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