カテゴリ:歴史 文化 古史料 著名人
芭蕉 鹿島詣
編者 松尾芭蕉記念館 平成元年三月刊 一部加筆 山口素堂資料室
芭蕉はつねに、「照顧脚下(しょうこきゃっか)」を心得る人でした。いつも反省することは、彼が身につけた禅の教えでもありました。 芭蕉は自分自身の心根を静かに確かめようと思い、しばらくひっそりと庵に閑居していましたが、貞享四年八月十四日、水郷鹿島神宮の名月を観るため、曽良と宗波の両人をともない、江戸から利根川岸の布在に赴き、そこから夜船に乗って鹿島に下りました。翌十五日、鹿島神宮に詣でたあと、根本寺の前住仏頂和尚の隠居寺を訪ねて、名月の両の一夜を遇ごしました。 帰りには利根川舟で江戸から行徳に赴き、そこの住人小西自準という旧友をたずねました。自準の宅では、次の三句を吟じています。
塒せよ藁干す宿の友雀 自準 塒(ねぐら)せよ藁(わら)干す 秋をこめたるくねの指杉 芭蕉 月見んと潮引きのぼる舟とめて 曽良
この発句、脇句、第三句は、追句の形式を示したものです。 これが芭蕉の第二の紀行文、『鹿島の記』の舞台でした。 この記は、古典的なうららかな流れによって綴られた、短編の紀行です。その年の冬、鹿島戻りのその日から、芭蕉は次の旅を計画したのでした。
芭蕉 笈の小文の旅
編者 松尾芭蕉記念館 平成元年三月刊 一部加筆 山口素堂資料室
笈の子文の旅は、野ざらしの旅とは違い、いくぶんにも余裕をみせた旅立ちとなりました。 貞享四年十月二十五日、江戸を旅立つにあたり芭蕉は、内藤露沾や宝井其角らが催した十一日の餞別句会で、
旅人と我名よばれん初しぐれ 芭蕉
を示し、旅に生きようとする自信にみちた旅人宣言を披瀝したのでした。 そこには、さきの野ざらしのときのような悲壮感はとり除かれていて、旅への生き生きとした鼓動がうかがわれます。 事実この句は、その後の芭蕉の生きざまを決定する、漂泊への代名詞となったのでした。 東海道を西に上った芭蕉は、十一月七日鳴海に泊り
ほしざきの闇をみよとや啼ちどり 芭蕉
を詠みました。 嗚海では越人がお伴して、十日は吉田の駅で超人とともに泊り、その日の実感を句に読みました。
寒けれど二人寝る夜ぞたのもしき 芭蕉
十二日には、伊良湖崎に杜国をたずねました。
鷹一つ見つけてうれしいらこ崎 芭蕉
杜国は坪井在兵術といい、裕福な米商人で、芭蕉がその才能を愛した門人ですが、空米売買の罪に問われ、財産没収のうえ処払い(追放)の刑を受けこの処に隠往していました。芭蕉は、杜国どの者がどうしてこのような罪を犯したのかと思うと、悲しくてなりませんでした。
麦はえてよき隠家や畠村 芭蕉 夢よりも現の鷹ぞ頼母しき 芭蕉
たえず杜国のことを夢に見ていた芭蕉は、本人と対面して無事を喜びました。門人の不幸を痛み分ける芭蕉の心は、落ぶれの身となった杜国にとって、なにものにも代えがたい贈り物となったのでした。芭蕉はこのとき、傷心の杜国を励ますため、明春に予定している吉野の花見に同行するよう勧めました。
杜国と別れ十二月一日、名古屋に入った芭蕉は、書籍商を営む風月堂夕道(せきみち)の宅に立ち寄りました。
いざさらば雪見にころぶ所まで 芭蕉
十日すぎ名古屋から伊賀上野に向かう途中、陸路佐屋に立ち寄った芭蕉はここから船で桑名に赴きました。桑名に着いてからは馬で伊勢の杖突き坂を越えます。 そのとき乗っていた馬の荷鞍が反転しはからずも落馬した芭蕉は思わず、即興に戯れ、自嘲自失して一章をのこしました。つまり、
さやの舟まはりしに、有明の月入はてゝ、 美濃路あふみ路の山山雪降かゝりていとおかしきに、 おそろしく発生たるもののふの下部などいふものの、 やゝもすれば舟人をねめいかるぞ興うしなふ心地せらる。 桑名より處々馬に来て、杖つき坂引のぼすとて、 荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。 ものの便りなきひとり旅さへあるを、 まさなの来てやと馬子にはしかられながら、
かちならば杖つき坂を落馬哉
といひけれども、季の言葉なし。 雑の句といはんもあしからじ。
とありますように、この句は季語のない句としても有名です。 このようにして、旅の途中さまざまなことを経験しながらやっとのことで、歳の暮れに故郷に帰った芭蕉は、実家で新年を迎えますが、その哀れに、故郷への万感の思いをこめて、
古都やへそのをに泣く年のくれ 芭蕉 (臍の緒)
を詠みました。自分が生まれた故郷に対する、深い愛情のあふれる句といえるでしょう。この句はまた、芭蕉自身が自分の出生の地を語るものとしても、重要な意味をもっています。
代々の賢き人々も、 古郷はわすれがたきものにおもほへ侍るよし。 我今ははじめの老も四とせ過ぎて、 何事につけても昔のなっかしきまゝに、 はらからのあまたよはひかたぶきて侍るも見捨がたくて、 初冬の空のうちしぐるゝ比より、 雪を重ね霜を経て、師走の末伊陽の山中に至る。 楢父母のいまそかりせばと、慈受のむかしも恋しく、 おもふ事のみあまたありて、
と書きのこしています。
故郷で春を迎えた芭蕉は、
二日にもぬかりはせじな花の春 春立ちてまだ九日の野山かな 香にゝほへうにほる岡の梅の花 手鼻かむ音さへ梅の盛哉 枯芝やゝかげろふの一二寸 あこくその心もしらず梅の花 丈六にかけろふ高し石の上 咲乱す桃の中より初桜 初ざくら折しもけふは能日なり さまざまの事おもひ出す桜かな
の句によって知られますように、この間、伊賀のあちこちを探訪して、若き日の思い出にひたりました。 なかでも三月十一日には、貞享二年の春、水口で再会した土芳が隠往する西中庵を訪れ、かつて江戸の句合で詠んだ、
蓑虫の音を聞きに来よ草の庵 芭蕉
の句をしたためた面壁の画賛を贈り、庵開きを祝いました。
三月下旬には上野町の豪商で旧友窪田宗七(宗好)、菅野宗無を誘い阿波庄(現阿山郡大山田竹富永)にある新大仏寺に遊びました。 この寺はかつて平重衡の兵火で焼亡した奈良の東大寺を再建するにあたり勧進聖となった俊来坊重源上人が平氏の没官頷となった杣に浄土堂を建立。仏師快慶作の阿弥陀三尊仏を安置した古寺ですが、江戸初期の山津浪によって堂塔は潰れ、石の台座に仏頭が妥置されるという悲惨な荒れようでありました。 芭蕉は重源上人の尊い作善も今はみるかげもなく陽炎ばかりが幻のようにたちのぼるのをみて感慨深く『新大仏寺記』を書きのこしたのでした。
俊乗上人の旧跡なり。今年舊里に年をこえて、 旧友宗七・宗無ひとりふたりさそひ物して、かの地に至る。 仁王門・撞楼のあとは枯たる草のそこにかくれて、 「松のいはば事とはむ石居ばかりすみれのみして」 と云けむも、かゝるけしきに似たらむ。 なを分いりて、蓮華臺・獅子の座なんどは、 いまだ苔のあとをのこせり。 御仏はしりへなる岩窟にたゝまれて、 霜に朽苔に埋れてわづかに見えさせ給ふに、 御ぐし計はいまだ恙もなく、 上人の御影をあがめ置たる草堂のかたはらに安置したり。 誠にこさらの人の力をついやし、 上人の貴願いたづらになり侍ることもかなしく、 涙もおちてことばもなく、むなしき石臺にぬかづきて、
丈六に陽炎高し石の上 ばせを」
その頃、旧主藤堂斯七郎家では、良恵(蝉吟)の遺児良長が家督を継ぎ、探丸(たんがん)と号して俳諧をたしなんでいました。 探丸は、芭蕉が帰省しているというので、彼を下屋敷(別邸)八景亭に招き、花見の宴を催されました。今はなき旧主良恵の遺愛の桜が咲きほこる下で、探光・芭蕉の二人は春の日の没するのも忘れて、語りあいました。 その日の感涙を懐紙にしたためた芭蕉は、新七郎家の悲哀を生涯忘れることはありませんでした。
探丸子のきみ墅所の花見もよほさせ給ひけるに むかしのあともさながらに
さまざまの事おもひ出す桜哉 挑青 春の日早くふでに暮行 探丸子
貞享五早春
その後、この亭を--さまざま園--と呼ようになりました。
「薄命能く仲ぶ旬日の寿」 といわれる桜花の薄命に、もののあわれを抱く芭蕉は、門人岡本苔蘇(たいそ)の菰竹庵に数十日滞在していましたが、伊賀より少しは開花の遅い吉野の花見に出かけるため、伊良湖崎から呼び寄せた杜国をともない、吉野へ出立つことになりました。そのとき秋岡は、万菊丸と童名に名を変え、したがいました。 旅立ちにあたって芭蕉は、苔蘇への感謝をこめて、
花を宿にはじめをはりやはつかほど 芭蕉 此ほどを花に礼いふわかれかな 芭蕉
の句をもって留別としたのでした。
芭蕉と万菊丸は、桧木笠の内に----乾坤無住同行二人----と落書して、
よし野にて桜見せふぞ桧木笠 芭蕉 よし野にて我も見せふぞ桧木笠 万菊丸
と書きつけました。
両人は伊賀上野から南下して、飛鳥時代の豊泊瀬街道を西へ。琴引峠、長谷寺、多武峰、臍峠、竜門、西河(にしこう)、蜻螐(せいめい)の滝を巡遊し、大和の平尾村で一宿しています。ここでは、
花の陰謡に似たる旅寝かな 芭蕉 謡=うたい
の句を詠み、これより高野山に上りました。
芭蕉 高野詣
高野のおくにのぼれば、 霊場さかんにして法の燈(ともしび)消る時なく、 坊舎地をしめてゝ仏閣甍(いらか)をならべ、 一印頓成(とんじょう)の春の花は、 寂莫(じゃくまく)の霞の空に句ひておぼえ、 猿の聲、鳥の啼にも腸(はらわた)を破るばかりにて、 御べうを心しづかにをがみ、 骨堂のあたりに彳(たたず)て、 倩(つらづら)おもふやうあり。 此處はおほくの人のかたみの集れる所にして、 わが先祖の鬂髪(びんはつ)をはじめ、 したしきなつかしきかぎりの白骨も、 此内にこそおもひこめつれと、 袂もせきあへず、そゞろにこぼるゝ涙をとどめて 父母のしきりに戀し雉の聲 芭蕉 この三界万靈の鎮まる高野の山で芭蕉は、行基菩薩が詠んだと伝えられる
山為のほろほろと嗚く声きけば父かとぞ恩ふ母かとぞ思ふ
という慈悲を心に深くうけとめながら下山し、和歌の浦から奈良にいたりました。 その日はちょうど四月八日の釈迦の誕生日にあたります。
濯仏の日に生れあふ鹿の子哉 芭蕉
の句は、その日に生まれあわせた鹿子の仏縁を詠んだものでした。 奈良に滞在中、芭蕉は、唐招提寺に鑑真和上の像を拝しました。 日本に渡来する時、船の中で七十今度の難を受けられて、ついに失明された高僧の孤高い生涯に心打たれた芭蕉は、尊さのあまり、
若葉して御めのしづくぬぐはばや 芭蕉
と口ずさみました。
その頃、芭蕉は、伊賀の門人猿睡(えんすい)・卓袋(たくたい)らと奈良で出会い、一夜を語りあかしました。 十一日には、これらの旧友との別れを借しんで、
鹿の角先一節の別れかな 芭蕉
の別離の句を詠んでぃます。
草臥(くたびれ)て宿かる比や藤の花 芭蕉 猶みたし花に明行神の顔 芭蕉
の句は、天理・布留・葛城巡遊の句であります。
それより芭蕉は、大坂から須磨、明石へと西下しました。 大坂では八軒家近く大江の岸に住む伊賀出身の旧友保川一笑の宅を訪れて、歌仙を巻きました。
杜若語るも旅のひとつかな 芭蕉 山路の花の残る笠の香 一笑 朝月夜紙干板に明初て 万菊丸
の三今は、そのときのものです。 十九日には尼崎から船出して、兵車で一泊。 二十一日には須磨・明石の処どころを、そこかしことなく巡遊し『源氏物語』・『平家物語』・『太平記』などに見える物語の遺跡をたどり歩きました。
月はあれど留主のやうなり須磨の夏 芭蕉 海士の顔先見らるゝやけしの花 芭蕉 蛸壺やはかなき夢を夏の月 芭蕉
の句は、栄華のかげりのなかで滅び去った平家一門への思いを、恋しく無常な姿としてうけとめたもので、「諸行無常・世間虚仮(こけ)」をあらためて見とどけたものといえるでしょう。 こうして歴史の舞台となった名所旧跡に人の世のあわれを見、歌枕に人の詩魂のまことを感じた芭蕉は、口を閉じて、語ることすらできなかったのでした。----誠とはなにか----を絶えず問い続ける芭蕉に対して、--人間とはなにか-- --人生とはなにか--といったさまざまな思いを、歴史の事実は語りかけたのでした。 これより奈良、京都に引き返した芭蕉と万菊丸は、四月二十六日、京都に北向雲竹をたずねました。雲竹は世に知られた大師流の古家であります。 芭蕉はこの人に、書法を習ったことで知られています。 その日は、竹の内村の孝女いまの事を雲竹に語り、感涙を新たにしたと伝えられています。 この頃、杜国(万菊丸)は芭蕉と別れ、六月二十五日保美に帰りました。
京から大津に出た芭蕉は、六月五日、
鼓子花(ひるがお)ねぶる昼間哉 芭蕉
の発句をたてて、近江の連衆と歌仙を巻きました。
その後、美濃に行き、七月には名古屋の荷兮宅を訪れふたたび鳴海の知足亭に入りますが、八月十一日には美濃を出発して姥捨に向かいます。 その出立ちを見送る門人たちに、
草いろいろ おのおの花の手柄かな 芭蕉 の句を留別としました。
更科の旅
信州更科の姥捨山は棄老(きろう)伝説という奇怪な昔話をもつ説話の舞台ですが、この処の田毎の月は観月の名所です。 芭蕉はこの月を見たくて木曽路を経て、北国西街道六十余里の道程を美濃から姥捨へ向かいました。越人が同行し
悌や媛ひとり泣月の友 芭蕉
いざよひもまだ更科の郡哉 芭蕉
の句は、この旅の吟です。
その下旬江戸に帰った芭蕉は、『冬の日』『春の日』につづく撰集として、『曠野 あらの』の編集にかかりました。 この草は荷兮の編んだ『冬の日』や『春の日』にくらべると『冬の日』は連句だけの年であり、『春の日』は追句に発句を追加した編集構成となっています。 ところが、『曠野』では発句編を前におくという特色がみとめられます。 そのことは、発句を通じて蕉風俳諧の在り方を世に問いかける意図がこめられています。 しかも、その問い方は不易の俳諧を選ぶことによって、過去、現在にわたる俳諧の変遷を指摘しながら芭蕉が晩年に唱えた軽みの理念を示そうと試みたものとなっています。 しかしなお、前向きに流行する蕉風の俳諧理念を求めて、元禄二年三月には、長途の「おくのほそ道」に挑戦しようとするのでした。
(註) 西行法師 (一一一八~一一九〇)俗名佐藤義靖 鳥羽院下北面に勤仕したが二十三歳の頃、道心にうながされて出家、西行と名のり、諸国を遍遊した。歌集「山家集」は有名。
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最終更新日
2020年06月01日 17時21分44秒
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