山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2020/06/05(金)20:27

初秋の頃 俳人 鬼貫(おにつら)

歴史 文化 古史料 著名人(720)

初秋の頃 俳人 鬼貫(おにつら) 初秋の頃 鬼貫 おにつら  秋立つ朝は、山のすがた雲の佇まい、木草にわたる風の景色も、昨日には似ず。心より思いひなせるにはあらで、自ずから情のうごく所なるべし。 七夕の日は、誰もとく起て露とり初るより、あるは言の葉をならべ、あるは古き歌を吟じて更に心を起し、あるはまた糸竹をならし、酒にたはぶれ、舟に遊びて、あすにならん事をおしむ。 桐の葉は、やすくおちてあはれを告げるさま、いづれの木よりもはやし。月のためには、日比覆へる窓、軒ばも晴やかに見ゆ。 朝がほは、はかなき世のことはりをしらしめ、情けしらぬ人すら、佛に向かう心をおこせば、しぼめる夕をこそ此花の心とやいはむ。 萩のさかりは、野をわけ入りてかひくるゝをもしらす。人の庭に有ては露ふく風に花をおもひ、かたぶく月に俤をおしむ。又花もやがてならんと見る此の風情こそ、いひしらずおかしけれ。愛する人のまれなるぞうらみには侍る。  荻は、むかしより風にしたしみて、そよぐの名あり。  秋立つ 鬼貫  そよりともせいで秋たつことかいの  ひらひらと木の葉うごきて秋ぞたつ  心略起て秋たつ風の音  此露を待て寝たぞ起たぞや  稲づまや淀の輿三右が水車  そちふかばこちらへ吹ば秋の風 鬼貢は摂津伊丹の人、芭蕉の一系とは異なった一流をなして「まこと」の俳諧を唱へた。 鬼貫小傳 嘯山(しょうざん)編  鬼貫、一名佛兄(きとえ)、姓は平泉、仮名は與三兵衛、津の國伊丹の人、其先はみちのくなる、和泉三郎忠衝より出たり。表して槿花翁といひ、また儸々哩、あるは犬居士・馬樂堂など称せり。中比洛の堀川に寓し、後は浪華に住す。壮年の頃、やまと郡山本多侯に仕えられしかど、久しからで、母の病るにあふて、祿を辞し、帰去来を吟す。七十三の年に髪おろして、法諱を即翁と称す。元文三年戊午秋葉月二日、島の内うなぎ谷わたりの家に病歿せりとぞ。今世誹諧を事とする人、鬼貫を知らぬあり、知りぬるも亦深く捜りぬるは稀也。これまたく常時此翁はもと伊丹の豪家にして、点者てふ稀を立ず、はたかの支考・野披などがごと、自ら街ありける類にあらざりし故にや。其小傳を閲するに、郷を出て後は浪速に、暫は洛にも居を寓せ、導引をもて年月を送るのよすがとす。其術たるや、もと明人某國の乱をさけて瓊浦に投ぜしを、道古なるもの、親み隨ひ、蹟を探りて、其技をうけ授りぬ。翁は■(皀卩)古が高弟にして、藍より出るの妙あり、天性眞率不羈にして、よろづ物に拘ず、學あり、才秀て、識尤高し。曾て弱かりし時、重頼に學び、西山宗因を友とし、すでに三十年に及ては、卓然として一家をなし、同郷の百丸・青人等を携へ、終に伊丹風なるものを興す。其調天に倚地を抜、俗を用て俗を離れ、初は人易きが如くにして、彌見れば彌難し。生涯の佳什、人のしりぬるかぎりは更にも云字、すべて集中に、あるは解しがたく、あるは無味なる、あるは嶮なる類などは、初心しばら手つけずて有なん。束ねていへば、たゞ其気象の高く逸れからに、目とどめぬべくこそ。北道発明の旨は、「獨語」にみえたり。芭蕉には十六七年もや遅れたりけめど、八ッのころより指を染られしと見ゆれば、稽古の功はけつく先たちてや有けん、よのつねの話にも。さいつころ筆執しめける桃青をのこ、其質さかしとしも覚えざりしが、いつしか諸處にいちじるく振回ありくよなどうち微笑みて蔑硯せられしよしなれば、まいてその餘の作者は論ずる事をまたず。八十に今二つ満たで、病に臥れし時、諧門人、枕の元にさし集いて句を乞けるに、いな吾常々興にふれ、事に感じてほくをもせしかど、今はた簀を易るに臨て、煩はしう何をかいひ出べきと答られしを、一人おしてさりともおぼす事なからましや、あはれ仰せあれかしとしひければ、微笑してさらば吾生付て蛇嫌なる事は、そこたちも知てん、なくなりて野邊送りすべかめる時、かの柩おほふなる機の頭に、青き蛇の、赤き舌出したる、いと心地あしからめ、これを不用にとりはかりたびてよといひつゝ終られぬとぞ。  (七 車)

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