山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2020/06/18(木)18:40

素堂 延宝6年 己未 1678 37才 ……三月、『江戸八百韻』 入集。幽山編。一座する。(俳号来雪)

山口素堂資料室(513)

素堂 延宝6年 己未 1678 37才 ……三月、『江戸八百韻』 入集。幽山編。一座する。(俳号来雪) 何踊花ふんで鐶鞴うらめし暮の聲        幽山松は知らねか年号の聲        安昌白い雉子青かしらの山見えて     来雪裾野の里に人崩れ有リ        青雲  (松木氏、甲斐)歩行の者それより下は草枕      言水四方の秋はづかしい事もなかりけり  如流さりとは内気小萩さく宿       一鐡白露の細かな物を見てばかり     執筆  (一順-以下略) 何笛其事よ蜑の咽干る今日の海      言水扨都衆は嶋山の花          青雲四畳半青きを庭に踏初て       泰徳曙の雫風つたひ行          一鐡中とをし匂ひや音に通ふらん     安昌岩切立下水に勢い有リ        来雪(素堂)月は尾上片陰にして鶩鳴ク      幽山   鶩=アヒロ猪は木の葉の色に伏あり       如流   猪=ブタ就中秋は悲しき下屋敷        執筆  (一順-以下略) 三字中略相宿リ天狗も婀娜ほとゝぎす     青雲   婀娜=ヤサシ鬼心せよ五月雨の闇         来雪泥の海其時は春秋もなし       如流草木の外に赤貝の色         泰徳月細く鱠の山の峡よりも       幽山   峡=カイ初て凉し棟の槌音ト         言水同名に跡は譲りて町はなれ      安昌慥な手代松に立添フ         一鐡大方は伊勢の生れの浦の波      執筆  (一順-以下略) 何子 夏痩に蘿の細道もなかりけり     一鐡蚤蚊にゆづる苺の狭むしろ      幽山渋團岩根の夢や破るらん       言水   渋團=シブウチワ暑やさむやの今朝の水音       安昌室咲の梅が香しめる雨過て      如流手作にふくむ青物の露        泰徳語りながら一日来やれ庵の月     青雲もう哥仙ほど暮残る龝        来雪淋しさや机の上の塵ならん      執筆  (一順-以下略) 何香 石筆に腕かいだるし野路の月     安昌油蝉の枕袖に松むし         幽山しはぶきしげく草の上かれ      如流近き比味ひ初るズウトホウ      一鐡立よる陰やツウランの軒       青雲文字は何三句めいかん此處      来雪水邊はなれ千鳥啼也         言水魚取ル事堅ク守を付らるゝ      執筆 何袷 大名やどうおぼしめす秋の暮れ    如流内屋敷ゆけば松風の露        一鐡露の隙水こす砂利の山晴て      青雲蜆石花から是にさへ月        来雪さむしろにまゝ事亂す夕氣色     泰徳ちんよころく白黒のくも       安昌八重煙生ずる所野路の里       言水文字定りて草刈の哥も        幽山鼻縄の涎も長くつたわり行      執筆   涎=ヨゴレ(一順-以下略) 木何茶の花や利休が目には吉野山     来雪麓の里に雪をれの筒         如流牛車跡に嵐を響かせて        安昌左衛門右衛門詠めゆく雲       言水あれでこそあれ御兄弟中月はよし   一鐡野は人形に分てやる色        幽山灸おろし蓬によはる虫の聲      泰徳古釘ふんで拂ふ露霜         青雲明はつる雲のかけたる崩レ橋     執筆 赤何 雪や思ふ松に并しを竹箒                 泰徳雑巾氷て軒端ゆく風         言水銅壺の湯煙みじかき朝朗       一鐡   銅壺=ドウコ屋形に月を捨舟の浪                   幽山はつ嵐よしなき吐逆進めけり     来雪子もりが不沙汰いかならん秋     青雲是はしたり小壁の庇の村絶      如流折釘つたふ雨の飛ばしり       安昌宿願を心にこめし雲晴て       執筆 素堂、夏の頃、長崎旅行に赴き越年する。唐津での句をめぐって、(仕官先が窺える) 二万の里唐津と申せ君が春 「山梨大学研究紀要」…素堂研究者の清水茂夫氏(故)はこの旅行の、二万の里……唐津の句をもって、素堂が主君との別れの挨拶句であるとしている。「ところで信章は、延宝六年の夏には長崎旅行をし、翌年暮春ころ江戸に戻りました。そして程なく致任して、上野不忍池のほとりに隠居しました。それまでは、林春斎に朱子学を学んだ信章は儒官として何処かに任官していたと思われますが、確証はありません。上に記した長崎旅行の際唐津まで赴いてつぎの句を吟じています。二万の里唐津と申せ君が春君が春は御代の春と同じで、仕官している唐津の主君を祝っていると考えますと、唐津に藩主にでも仕官していたのではなかろうかとも考えられます。しかしこの旅行を契機として理由はわかりませんが致任しています。 不易流行そして清水氏は『続虚栗』の素堂の序文「はなに時の花有り」を挙げて、素堂は時の花とは一時の興を与えるものであり、その時だけの目新しさ・新奇さを持つ句にあるとし、終の花とは永遠にその興を与え続けるものであり、時代を超えて人々を感動させる句にあると考えたのです。これは後に芭蕉によって論された不易流行の先駆をなす見解であると言えます」とある

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