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2020年06月18日
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カテゴリ:俳諧人物事績資料

『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』

 

芭蕉の甲斐谷村流寓説に大きな力を発揮したのは大虫(明治三年没)の稿本『芭蕉翁年譜稿本』の次の記載による。小林佐多夫氏の『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』に詳しい内容が記されているが、概略は、

 それまで六祖五平という定かでない人物を頼っていたとする芭蕉の甲斐流寓の旧説を打破して、秋元家の国家老高山傳右衛門繁文(麋塒)を頼ったとする新説が大きな要因を占めていると思われる。芭蕉は江戸大火の直後に浜島氏の家に仮寓していて、芭蕉が参禅していた仏頂和尚の門に居て、芭蕉の門弟でもある高山麋塒の帰国の際に芭蕉を誘い、さらに杉風にも相談すると、姉が甲斐初雁村にいるので折々滞留して下さい、との申し出に芭蕉も甘んじる事となる。この際、麋塒の別荘を「桃林軒」と号し、芭蕉はこの「桃林軒」を寓居と定め、心のまゝに城外にも逍遥し玉ふ、云々。

 

大虫の説と勝峯晋風氏の説が重なり揺るぎないものとして「芭蕉の甲斐谷村流寓」が定説化に向けて進んでいる。しかし確たる資料を持たないものは、研究者の論及も仮説、推説であって定説とはならないのである。 

芭蕉の来甲した時期であるが、秋元家では知行所一帯で溜まりに溜まった秋元家への不満が爆発した。延宝八年(1680)の郡内百姓一揆である。騒動は拡大して百姓総代が江戸町奉行に越訴して、受け入れられず翌九年(天和元年・1681)二月二十五日には谷村城下の金井河原に於て磔及び斬首と云う極刑で幕を閉じる。当時の谷村周辺の庶民生活の困窮振りが忍ばれる。騒動が続く中でも秋元家の躍進は進み、庶民の困窮振りはさらに悪化していたと推察できる。芭蕉の谷村流寓は、そうした時代背景の中で為された事なのである。

 この時に高山麋塒が国家老であったかは分からないが、大変な時期に芭蕉は甲斐を訪れた事になる。芭蕉の書簡の「様々苦労いたし候はば」こうした時代背景を意識していたとすれば、妥当な文言ではある。

 さて今栄蔵氏の『芭蕉年譜大成』によると芭蕉の天和三年の行動は次のようになる。

 

◇『芭蕉年譜大成』

天和二年(1682)十二月二十八日

  芭蕉庵類焼、その後当分の居所定かならず。    

天和三年(1683)一月

 当年歳旦吟(採茶庵梅人稿『桃青伝』に「天和三癸亥さい旦」として記載。)         

元日や思へばさびし秋の暮れ(真蹟歳旦)

 春(一月~三月)五吟歌仙成る。【連衆】芭晶・一晶・嵐雪・其角・嵐蘭

 花にうき世我酒白く食黒し  芭蕉     

 夏(四月~六月)甲斐谷村高山麋塒を訪れ逗留。一晶同道。逗留中三吟歌仙二巻成る。

この後の五月には其角の『虚栗』刊行され、芭蕉は序文を書す。芭蕉の寄寓先の高山麋塒の句も見える。

天和二年

餅を焼て富を知ル日の轉士哉        麋塒

参考    

 烟の中に年の昏けるを

霞むらん火々出見の世の朝渚        似春

天和三年

浪ヲ焼かと白魚星の遠津潟      麋塒

雨花ヲ咲て枳殻の怒ル心あり        麋塒

《連衆露沾・幻呼・似春・麋塒・露草・云笑・四友・杉風・嵐蘭・千春》

人は寐て心ぞ夜ヲ秋の昏       麋塒

花を心地狸に醉る雪のくれ      麋塒

 

参考

花を心地に狸々醉る雪のくれ 『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』

 

これによれば、芭蕉は天和二年暮れの江戸大火の後、直ちに甲斐に来たわけではなく、天和三年の四月以降のことで、この火事では秋元家の江戸屋敷も火災に見舞われているので、国家老との高山麋塒にしても芭蕉の処遇どころではなかった筈である。又五月には江戸に戻り、其角編の『虚栗』の跋文を書している。

 次の歌仙が芭蕉が甲斐谷村に高山麋塒を訪ねて逗流した折に巻いたものとして、芭蕉が甲斐に入った事を示す実証として用いられている。

逗留中三吟歌仙二巻

 『蓑虫庵小集』猪来編。文政七年(1824)刊。「胡草」(歌仙)【へぼちぐさ】

 

胡草垣穂に木瓜もむ家かな     麋塒

笠おもしろや卯の実むら雨     一晶

ちるほたる沓にさくらを払ふらん  芭蕉

 

『一葉集』湖中編。文政十年(1827)刊。      

 

夏馬の遅行我を絵に見る心かな      芭蕉 

  変り手濡るる滝凋む滝      麋塒

 蕗の葉に酒灑ぐ竹の宿黴て     一晶

 

 当時は春(一月~三月)夏(四月~六月)秋(七月~九月)冬(十月~十二月)であり、『芭蕉年譜大成』の夏、甲斐谷村に高山塒麋を訪ねて逗留。五月江戸に戻るので、芭蕉の逗留期間は非常に短期間と云う事になる。

さらに先述した『虚栗』には、麋塒の句も入集しているが、これらの句が甲斐に居て詠まれた句かは定かではない。さらに『虚栗』の編集期間の問題もあり、芭蕉が五月に跋文を書して、又入集句に目を通し板行する期間も短期間となり、ましたや『虚栗』は弟子其角のはじめての選集である。刊行なったのは六月であっても、準備は以前から進められていたとするのが自然で、当たり前の事であるが句作は刊行より以前となる。   

私には句作の季節や句意などは分からないが、芭蕉が跋文のみで終わるという事はなく、『虚栗』の末では其角と芭蕉の連歌が記載されている。両者の句作はどの時期亥にわれたのであろうか。

 

『虚栗集』所載の句

 

 酒債尋常往ク處ニ有人-生七-十古来稀ナリ

詩あきんど年を貪ル酒債(サカテ)     其角

-湖日暮て駕(ノスル)レ馬ニ鯉      芭蕉    (以下略)

 改夏

ほとゝぎす正()月は梅の花         芭蕉

待わびて古今夏之部みる夜哉        四友

山彦と啼ク子規夢ヲ切ル斧       素堂     (以下略)

 憂テハ方ニ知リ酒ノ聖ヲ 貧シテハ始テ覚ル銭ノ神ヲ

花にうき世我酒白く食黒し      芭蕉

眠テ盡ス陽炎(カゲホシ)の痩       一唱 (以下略)

 

《連衆芭蕉・一唱・嵐雪・其角・嵐蘭》

 

 素堂荷興十唱(略)

 改秋

臨 素堂秋-池ニ

風秋の荷葉二扇をくゝる也        其角

『芭蕉年譜大成』によると、一月、歳旦吟。春、五吟歌仙                                   

憂方知酒聖 ・貧始覚 銭神                                           

花にうき世我酒白く食黒し      芭蕉 

  眠ヲ尽す陽炎の痩せ       一晶               

 

 『虚栗』所収の秋冬の句は、刊行が天和三年六月であるから、前年、天和二年以前の秋冬(七月~十二月)の句である。

 

 芭蕉は夏、谷村逗留の後に五月江戸へ戻る。五月其角編『虚栗』の跋文を草す、六月刊。

 さて、甲斐出身とされる山口素堂はこの芭蕉の最も親しい友である。『甲斐国志』の記載以来、素堂の伝記は大きく歪められてしまっている。国志によれば素堂の家は甲府でも富裕の家柄であった云う。弟に家督を譲り、江戸に出たとされる素堂ではあるが、芭蕉庵を再建する発起人となるのであれば、何故芭蕉の甲斐流寓の手助けをしなかったのであろうか。素堂側に立って「素堂と芭蕉」の親密さを見れば、素堂は芭蕉の甲斐流寓の目的を十分理解していたと思われる。芭蕉が江戸に戻り参加した其角の『虚栗』には、素堂は中心的存在で参加している。後の『続虚栗』には素堂は「風月の吟たえずしてしかもゝとの趣向にあらず云々」で始まる序文を与えている。其角にとっても素堂の存在は大きなものであったのである。もちろん高山麋塒にとっても素堂は、幕府儒官林家に出入りする素堂の知識と俳諧に於ける先駆者としての位置づけは承知していた筈である。 九月、さて江戸に帰った芭蕉ではあるが、住む所が定まらず親友素堂の呼びかけで芭蕉庵を再建する。






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最終更新日  2020年06月18日 21時07分54秒
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