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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年07月04日
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カテゴリ:富士山資料室

富士山の歴史 先佳民族域砦の遺跡

富士の裾野地帯の梨ケ原には、犬小二箇の臼窪山があるが、これは元來富士の寄生火山であって、臼のような形状になって、中央に窪んだ火口ができている。鐘山(忍野村忍草)とは、桂川を隔てて相対しているが、西が大臼窪山、東が小臼窪山で、桂川をのぞんで並列して居る。

 ○大臼窪山 

大臼窪山は、高さ五六間乃至十間ほどの外郭丘陵が輪状をなしている。一番高い所へのぼるに、八十歩を要し、東南西の外郭丘陵の上部を歩測すると、三百ハ十六歩乃至四百歩ほどを要する。北部はやゝ低く桂川崖上をのぞんで開口している。その開口する部分の幅七十四歩。噴火口の東内側百九十歩、西内側は五十歩.西内側は二百五十四歩ほどあり、火口は火山礫で埋没している。

丘陵内壁の東南西の三方は、三段の階段となっている。この階段は人口的のものである。この丘陵上にのぼれば西は河口湖・西湖・精進方面の富士の裾野を一眸の中にのぞみ、御坂山系木無山つづきの十二ヶ嶽、その他の連山が見える。東北は内野忍草の平野を脚下に御正体山、山伏峠から道志の山々、丹沢山の一部、籠坂峠につづく天神峠、足柄山方面まで見える要審の地である。

 

○小臼窪山

 

小臼窪山は大臼窪と同じ形式で、後方にひらけた口は、幅間高さ五間、外廓丘陵上三百四十歩。内部底百五十歩ほどである。そして後方にひらけた口は、桂川の急流が深潭をたたえている。

古代の内野忍草附近が湖沼であった時代には、満々たる水をめぐらして、今より一層の要塞地であったであろう。

この小臼窪山の南方二手の所に、彼等の居住した遺跡があり、土器・石器の破片が散在していたことは.前章に述べた通りである。

この小臼窪山の外廓丘陵に於いても、その廓内に於いて弥生式土器の一小破片を発見した。その小破片が、その小破片が彼等の石鏃の製造所で、かつ住居遺跡であった所から発見されたものと、殆ど同時代の弥生式土器である。

 

 ○大臼窪山

 

大臼窪山附近ではまだ当時の遺物は発見されないが、小臼窪山では彼等が生活に使用した、土器を発見したので.この山と彼等民族と密接な闘係があったことが考へられる。大臼窪山からは確証すべき遺物は発見されないが、小臼窪とは数丁の距離にあり、同一形式の丘陵である所から考察しても、両者が彼等民衆と関係のふかい、要塞地であったことが想定される。

大臼窪山をもチャシ(砦塁)とする理由は、休噴火口壁の内側に於ける周囲の階段である。人工的に三段の丘階を形作ってあるが、これがどうも近世のものとは思はれぬ。かの朝鮮に於ける鉢巻山類似のもので、鉢巻山は外部に鉢巻をしているが、これは内部に階段が作られている。その様式が、古代に於ける築城法と考えられるのである。

 

○谷村勝山城址

 

谷村町の古城、河棚の勝山城址のごときも、歴史記録では淺野某が城を築いたというが.事実はそれよりズツト古い、有史以前の城砦であつた事がわかった。勝山城址の山上で石鏃の破片を発見し、つづいてアイヌ土器、弥生式土器(木の葉痕あるもの)などを発見しているので、一度いここにのぼってて見ると、北は岩殿山方面の北都留の群山から、南は裾野を見はらして富土を中天に仰ぐ、景勝の地でしかも敵の行動を知るに都合がよく、要塞地として桂川上流沿岸に於ける一等地である。城址上に土塁の階段があって、大臼窪山の内部の階段と同一の手法である。

この附近に於ける古代のチヤシ(砦塁)は、谷村町古城山(勝山城址)・大臼窪山、精進バノラマ山・嘯(ウソブキ)山(船津村)などの他にまだ二三あるが、中にも大臼窪山の要塞地は、富士山麓において最も特殊な地形を有するものである。

 

○富士郡大宮町の黒田附近の城砦

 

なお富士山の周囲において、富士郡大宮町の黒田附近の城砦である。この地を俗に「月の輪」と称している。月の輸は大宮町字星山区内に属し、その四周の地形がすでに天然の城砦をなしている。後方には断崖あり。前面には古代の湖沼の地を隔てて、富士山に相対し、明星山は近くそびえ、かなり要害の地であった。そごからは主として弥生式の土器や、石器類を出土するのであるが、三方を水にかこまれた地形なので、彼等がこの地に原始的な生活をしていた頃は、四辺は老樹が鬱蒼としてしげり、湧水も潺々(センセン)としてながれ、寂しい物すごい丘陵地であつたと思はせられる。平常は山の根の台上に住み、いざ戦争となれば裏山の城砦に立て篭もって争闘をつづけたものと老えられる。

 

 ○富士郡富士根村字箕輪

 

これと類似するのものが、富士郡富士根村字箕輪にある。ここには彼等日本人が来住しなかった以前に、アイヌの山城要塞であった思われる場所で、地形はほとんど箕の形をして居り、アイヌの遺物も出れば後の日本人遺物である弥生式土器なども出る。これは始め富士アイヌの占拠地であって、後に日本人に占領された遺跡である。

 

 ○富士川下流の明星山

 富士郡地方の伝説によれば、富士川下流の明星山は、古代日本人が兇族悪羅王を征服した山城などの、神話が里俗の間に今も残っている。そしてこの地方に割拠していた先住昆族は主として狩猟生活者であって、山祇の神を崇拝した山砥部族であつたことは石器などの遺物によって推考されるのである。

 






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最終更新日  2020年07月04日 08時22分36秒
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