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歌に見る日本の美学 竹について
『文芸春秋 デラックス』s49・5 「万葉から啄木まで 日本名歌の旅」 佐々木信綱(歌人 著) 一部加筆 白州ふるさと文庫
柿本人麿、大作家持、万葉集を代表するこの二人の歌人のそれぞれの代表歌とも言うべき作品に、ともに竹が登場するのは興味深い。 両方ともすでに有名な歌である。
小竹の葉はみ山もさやにさやげども われは妹思ふ別れ来ぬれば 柿本人麿
わが屋戸のいささ群竹吹く風の 音のかそけきこの夕かも 大作家持
この歌の内容については後で述べるが、まず気づくことは、二つの作品がともに視覚的対象としてではなく、聴覚の対象として竹をとらえている点である。 前者は、山全体がたちさわぐ、やや無気味な、不安感を呼び起すようなそれ、後者は、早春のそよ風に庭隅の、せいぜい四、五十本の竹がゆれるそれであって、状態も雰囲気もまったく異なっているが、双方とも、あの竹の葉独得の葉ずれの音が、まさに人間の心情を研ぎ上げ磨き上げる音として、一首の中で実に見事に生きている点では同じ構造を持っている。
心の中の世界を凝視するとき、人は外界の何ものをも本当には見ていない。目は開いており、視界にあるものを感じてはいるか、普通われわれが言う意味での見ることはしない。 古語で言う〈眺め〉るだけだ。しかし、音はちがう。外界の音を聞くことで、人間の内面は逆にしんと静まり、心の申の世界を凝視する目は集中し鋭くなる。
閑さや岩にしみ入蝉の声 松尾芭蕉
奥の細道のこの句などは、このへんのニュアンスを巧みに表現し得ている点て最もポピュラーな作と言えるだろう。この句の前に置かれた文章で、芭蕉は
「佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ」
と書いている。払には、澄みゆく心を凝視する俳人のまなざしがこの句に見えるような気がする。人が 真に内面の何かを見るときに、静寂があるのだ。そしてその静寂は、外界の音によってむしろ逆に深められてゆくのである。 さて、人麿はいま、馬上の人である。彼は手綱をゆるめ、馬なりに歩みを進めつつ、先ほど別れた妻のことを思っている。人麿は彼女を石見国に一人残し、大和への旅に出発したのである。 波間に揺れる藻のように、濡れ濡れとした長い黒髪が靡き波打つ、抱き寄せたときの彼女の姿態を人麿は思っている。 俺と別れて彼女はしょんぼりしているだろうな。別れぎわに俺が振った袖はあいつに見えただろうか。
こうした彼の思いとは関係なしに馬は歩む。彼女からますます遠ざかってゆく。だが、遠ざかれば遠ざかるほど 鮮明になっていく彼女のイメージ。そ れを凝視する人麿。人麿の目は外界の何ものをも見ていない。馬なりに歩みを進めるだけである。これが、
「われは妹思ふ別れ来ぬれば」
のおおよその意だ。
その人麿が進んでゆく山道の両側は一面の小竹の原。全山を揺するような葉ずれの音が人麿を包む。山中での日暮れに聞く小竹原のざわめきは、なぜか人の不安を誘うものである。私は北海道の原生林の中で日暮れをむかえ、一面の熊笹の葉ずれの音に包囲されてたいへんな不安を昧わったことがあった。ここも、私には日暮れ道がふさわしいような気がする。旅先での不安、それは、現在そして未来への時間的な不安でもあるだろう。 大概は、しかし、こうした不安を誘う音に包囲されつつ、ひたすら彼女のイメージを凝視しようとしているのである。凝視することの静寂。この静寂の質が一首の詩的純度を高めている。
天平勝宝五年(七五三年)の旧暦二月二十三日に大伴家持は二首の歌をつくっている。 東大寺大仏開眼の翌年、家持は三十代の後半に入っていた。一首は冒頭に掲げた「いささ群竹」の歌、いま一首は、これも有名な、
春の野に霞だなびきうら悲し この夕かげに鶯鳴くも
である。この「うら悲し」は、現実的日常的な何かに触発されてのそれではない。存在すること自体の悲しみに触れたそれであろう。孤独、倦怠などという語を言ったとたんに抜け落ちてしまう何か。 その何かを凝視する家持であったからこそ、あるかなきかの春風にかすかに鳴る竹の葉ずれの音を耳にとめ得たのだ。透明で繊細な、水晶の刃のように研がれたこの日の家持の神経と、その内面の静寂を払は思う。 かすかな、本当にかすかな竹の葉ずれの音が、その静寂を深めてゆくのである。
竹は、日本の文化全体ときわめて密接な関係にある植物である。入手しやすく、細工が簡単で、しかも用途が広い。また、百科辞典によると、筒は二十四時間にIメートル以上も伸びるという。 古代日本人はその生命力に霊威を認めたのだろう、呪禁(じゅきん)に関わる道具類には多く竹が用いられた。イザナギノミコトが黄泉の死霊に追われて逃げるとき投げた櫛は竹製であった。 カグヤ姫が竹の中から生れたという設定も、古代人が竹に認めた霊威と無関係ではない。
さらに、詩歌に登場する自然としての竹も、全体的に見た場合、葉ずれの音で代表させるのは不適当であろう。 数から言えば雪中の竹ということになろうか。あざやかな白と縁の対比、深夜に響く竹の雪折れの音、これを素材とした詩歌の数は多い。そして、朔太郎の『月に吠える』中の代表作「竹」もある。 しかし、これらのすべてを措いて上の二首を掲げることに、私は躊躇しない。
耳で聞く日本の自然。それは、水の音であり、鳥の声であり、虫の音であり、風のそよぎである。これらは無数の日本の詩歌にうたわれてきた。 そこで、その原点に最も近くそそり立つ二首の絶唱が、ともに竹の葉ずれの音によって研がれてゆく心情とその静寂をうたっているのはきわめて印象的であり、偶然とはいえ、何か日本の詩歌の在り方の全体の質を暗示しているような気もしてくるではないか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年09月04日 06時08分10秒
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