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2020年09月07日
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   縄文人は何人いたか

   鈴木公雄氏著

『歴史地理教育』1986-№395

    3月臨時増刊号

   一部加筆 山梨 白州ふるさと文庫

 縄文時代の人口のかぞえかた

 

今日のように、各種の統計資料や、様々な調査機関が完備していても、人口を正確に知ることはむずかしい。ましてや、過去の社会の人口を知るとなると、多くの制約がある。

日本の歴史でいままでのところ最も古く、かつ信頼できると認められる日本人の総人口は奈良時代(八世紀なかごろ)のもので、沢田吾一の推定によると五五八・九万人であった。この沢田の人口推計は、日本古代において人々に貨付けられていた出挙稲の数を基にしたものだが、この人口は当時の良民の人口で、浮浪・奴婢・雑戸などは含まれていない。

 縄文時代には、奈良時代のような文字による記録を用いることはできないので、考古学によって明らかになる遺跡(集落)の数を利用する方法を小山修三が考案した。

 

まず、さきの沢田による奈良時代の関東地方の人口を用いて、同じ時代の関東地方の遺跡(集落)数と比較し、当時の一遺跡あたりの平均人口を求めると約一七〇人となる。

つぎに、奈良時代の遺跡と縄文時代の遺跡の規模を、それぞれの集落における住居の数を中心に比較する。これは、縄文時代の集落の人口と、奈良時代のそれとの規模の比較を行おうということである。

この結果は、奈良時代の一遺跡あたりの人口を一とすると、縄文時代早期は二〇分の一、前期~後期は七分の一、弥生時代は二分の一くらいとなった。つまり、奈良時代の一遺跡あたり人口一七〇に対して、縄文時代早期の一遺跡あたりの人口はその二〇分の一、約九人ほどである、ということである。さいごに、縄文時代の早期、前期、中期、後期ごとに各地域の遺跡数を求め、それにさきの比率を乗じ、さらにそれに奈良時代の一遺跡あたりの人口をかければ、縄文時代の人口が時期・地域ごとに求められることにな

る。その一例を示すと下のようになる。

 

縄文時代中期関東地方の人口

=奈良時代関東地方の一遺跡あたりの人口(一七〇人)

×奈良時代の一遺跡あたりの人口に対する縄文時代遺跡人口の比(七分のI)

×縄文時代中期関東地方の遺跡数(三九七七)。つまり、

170×3977966600人である。

 

 二 縄文時代の人口変動とその意味

 

以上のような方法によって得られた小山による縄文時代の時期別地域別人口は表のようになる。これをみて注目すべき点は、

①全期間にわたり東口本に人口集中がみられる。

②西日本を除いて、縄文時代後期に人口派少がみられる。

③中期に著しい人口増がみられたあと、

後期に大幅な派少がみられる地域(関東・中部・東海)がある。

④西日本は縄文時代を通じて人目が希薄だが、

極端な人目の増派がなく、比較的安定している。

⑤ 縄文時代の早期から前期にかけて総人口が五倍のびている。

⑥ 縄文時代後期から弥生時代にかけて総人口が三・七倍のびている。

 

これらのうち、①―④にかけての現象は、考古学的調査などによって明らかにされる縄文時代の各地の文化勤態とくらべて比較的よく一致している。

これに対して、⑤と⑧には問題がある。すなわち、縄文時代早期から前期にかけての人口の伸び率のほうが、水稲農耕を開始した弥生時代の伸び率より高いからである。これは縄文時代の早期から前期にかけてが、きわめて人口の増大を生かような住みやすい環境にあったのか、あるいはこのような方法による人口推計の方法に何らかの問題かおるかのいずれかを示すものとみられよう。




 

  三 縄文人の寿命と人口の維持

 

縄文人の人口推計と密接な関係をもつものに、縄文人の寿命の問題がある。これは貝塚などに埋葬された人骨の死亡年齢を推定することから明らかになる。小林和正の研究によると、繩文人のゼロ歳時平均余命は男女とも一四・六歳で、二〇-三〇歳代につよい死亡の集中が認められるという。

これは一〇〇人生まれた子が、一五歳ころには五〇人以下になり、三〇歳ころには二五人以下になってしまうことを意味する。

このような状況で人口を維持するには、女一人について八人ほどの子どもを生か必要があると推定できる。これはあまりに厳しい条件であり、さきの縄文人の人口推計にみられる縄文時代早期~中期にかけての人口の増大とはかなり異なった状態が想像されることになる。そのため最近では縄文人のゼロ歳時平均余命を二五歳前後に求めようとする考え方もある。

しかし、いずれにしても縄文時代における人口の増大が、それほど簡単に可能であったと考えることは縄文人の寿命という観点からはむずかしい。

 このような矛盾が生じた原因は何に求められるのだろうか。

一つには遺跡の散を人口推計の基礎として用いることにあると思われる。縄文時代の遺跡の数は、分布調査ないし見損調査といった、考古学的調査によって明らかにされる。それゆえ、考古学の調査がよくいきとどいている地域では当然多くなるし、調査の十分行われていない地域では少なくなる。だから、ある地域に縄文時代の遺跡が多く発見されていることが、直ちにその地域の縄文人口が高かったとするには慎重でなければならない。

以上のことからみて、縄文時代の人口を正しく推定するには、なお研究改良を重ねる必要のあることがわかる。しかし、現在まで明らかにされた縄文時代の人口動態も、大きくながめたときには、縄文時代の文化・社会を考えるときに重荷なものであり、今後その方法に改良を加えれば、縄文時代の歴史研究にとって貴重な事実を明らかにするにちがいない。

 

 〔参考文献〕

小山修三『縄文時代』中公新書七三三、一九八四年。

 鈴木公雄『日本の新石器時代』『講座日本歴史 1』

『原始・古代 1』東大出版、一九八四年。

 (すずき きみお・慶応義塾大学)

 

 






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最終更新日  2020年09月07日 15時24分55秒
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