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2020年09月09日
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日本に来た宣教師たち

 

『歴史地理教育』1968・№395 3月臨時増刊号

  歴史教育ハンドブック

  教室の常識を問う日本史5050

石厚保徳氏著

 

一部加筆 山口素堂資料室

 

 

 ザビェルによる日本布教(一五四九~五一年)は、「鉄砲伝来」(一五四三年)とともに、わが国とヨーロでハとが接触する発端としてどの教科書にも特筆されてはいるか、いずれの場合もその世界史的文脈にまで目を届かせる工夫がこらされているとは思えない。

 このような学間=教育現実を打開してゆくために、ここでは、ザビェルを先頭に一六世紀後半から一七世紀初頭にかけて続々と来日してきた宣教師たちの様子に、いくらか照明を与えてみることにする。このためには、なによりもまず、彼がロヨラたちと創めたイエズス会(一五四〇年正式認可)の活動内容を見究めておかなければならないし、それに加えて、スペイソ勢力の進出(一五六五年)で聞かれたインディアス(ラテンアメリカ)からフィリピンヘの途を利用して、マニラ経由でイエズス会の独占を破るべく渡日するようになったフランシスコ会、アウグスチノ会、ドミニコ会などの諸修道会の世界諸地域にわたっての活動を全体としてつかみとる作業もまた要請されることになる。

 彼ら聖職者たちは、いねば一五世紀にはじまるヨーロッパの拡大、つまり「世界支配」の端緒となる運動を第一線で担った中心勢力であり、彼らの聖俗両面にわたる精力的にわたる広がりと深さは、瞠目すべきものがあった。彼らは同時代ヨーロッパ人としては、最も抜きん出た世界認識をわがものとした、したたかな政治=思想集団としてみずからを鍛えあげていたのである。

 ところで、日本々中国への布教の開始は、彼らの活動全体からすれば第二ラウンドにあたっていたこと、つまり、それに先だってすでに半世紀も前から「東西両インド」への「征服」は開始され、改宗事業も着々と進捗していたことを忘れてはならない。イエズス会は、いわばこの第二ラウンドに登場してきた新しい修道会であった。

 ここで日本布教問題とかかわって三人のイエズス会士に登場してもらうことにする。

第一番目は、なんといってもザビエルである。

彼に関して注目すべき第一点は、彼が広くアジア全域の布教構想と不可分離に、みずからの出処進退を決めていったことである。彼のゴアヘの旅立ち(1541年)は、東方アジアヘの教皇特使としてであったのである。使命に忠実な彼は、ゴアにとどまることかく、翌42年からは、インド半島沿岸からはじめて、マラッカ、はてはモルッカ諸島へと布教活動の網を広げる。日本布教もその一環に他ならなかったが、この日本から帰ってきた彼をまっていたものはイエズス今インディア管区(日本もそこに含まれる)初代管区長の地位であり、彼のつぎの(最後の)ステップは、日本人改宗にあたって重要な意味を持つと考えられた中国であった。

つぎに留意すべき第二の点、それは彼の布教活動がポルトガル国王への忠誠心のもとに遂行されていたことである。1494年の教皇勅書による世界二分割に対応してポルトガル領となった東方インディアに関しては、布教もまだポルトガル王室が実権をもつものとされており、彼の派遣も国王ジョアソ三世の要請に教皇がこたえて実現されたものであった。

 以上みられたザビエルの政策と布教原理を忠実に受け継いだのが、史上名高い天正少年使節(1581~90年)を組織したイタリア人イエズス会士ヴァリュャーノである。彼もまた東インディア巡察使として(のち管区長)アジア全域に、なかんずく日本布教に力を注ぎ、日本教界を飛躍的に発展させる原動力となった。彼の遣したいくつかの書簡や記録を読むとき、私たちはそこに、めまぐるしく変化する日本情勢に目くばりを怠らず、他方、日本の歴史や文化の特質を研究するなどして、一つ一つ布教方針を練り上げてゆく異才を発見するのである。

そしてこの彼もまた、ザビエル同様、「文明」大国中国の存在をことのほか重視し、その鎖国政策をかいくぐって、そこに布敬者を送り込むことに腐心する。

マテオ・リッチの中国布教も彼の指導下にすすめられた事業に他ならなかった。

 最後に、このヴァリニヤーノが対策に苦慮した問題か二つ取りあげる。「中国=日本軍事征服」キャンペーンがそれであり、その主唱者は、日本布教長を艮年つとめた(157081年)、ボルトガル人イエズス会士カブラルや、マニラより中国布教を狙うサンチエスらであった。彼らはまず武力制圧ついで布教を、という経験ずみの方式をこの両国に対しても採り入れようとしたのであるが、ヴァリニャーノはこれに反対の態度をとる。時宜に適せず条件がととのわず危険、というのがその理由であった。つまり、彼の立場は、布教は平和的方法でおこなうべしとの原則にあくまで貫かれていたわけではなく、条件がととのえば武力征服も可とする含みをもつものであった。このとき彼が依拠したもの、それはイエズス会が誇る「地域研究」、彼のいう「真実の情報」であったのである。

 以上、ヴァリェャーノに見た布教戦略と地域研究の密接不可分な関係を、より大きなスケールで明らかにするものが、この論争にインディアスの地から加わったスペイン人イエズス会士ホセ・デ・アコスタ(15401600年)のケースである。長くインディアスの中枢の地ペルーにおいて布教と統治の双方に深くコミットし、インディアス征服事業が孕む矛盾に苦しみながらも、それを基本的には容認していたアコスタもまた、この論争において、ヴァリニャーノの側に立つ。ここでもまた、彼がインディアスにありながらそのときまでに獲得していた中国認識が決定的な役割を演じたのである。

彼は布教対象たるべき異教世界を発展段階に応じて三つの地域に区分(差別)したが、中国や日本はその最上位におかれていた。

ここから彼は結論する。このような国々への抗争行為は、現時点においては有方処益である、と。世界認識と布教戦略がここに協働する。

ここで、私たちは、対中国軍事介入に反対を説く彼が、他方、三段階の最底辺においた[カリベ口=人喰い族」に対する軽蔑と憎しみをかくさず、彼らに対する武力懲罰を当然のこととして是認していることを忘れてはならない。おそるべき世界征箭イデオロギーの祖型がここにあったのである。

     (いしはら やすのり・千葉県/編集者)






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最終更新日  2020年09月09日 18時14分53秒
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