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江戸っ子の義士採点表 川柳に見る赤穂事件
文芸評論家 北村鮭彦氏著 『歴史読本』特集「忠臣蔵とはなにか!?」 昭和63年新年号1
一部加筆 山梨歴史文学館
ケチン坊浅野と商売人 ――進物の安井が事の起りなり
元禄十四年(一七〇一)三月十四目、江戸城中で播州赤穂藩主浅野内匠頭が高家筆頭吉良上野介に刃傷、浅手を負わせただけで捕えられ、その目の夕方、睦奥一関藩主田村右京大夫邸の庭先で切腹させられた事件が起こった。 江戸城中で起きた刃傷事件は数件あり、仕掛けた方はいずれも目的を達したが、この件だけは未遂だった。そこでたちまち浅野内匠頭を嘲笑する落首が江戸のあちこちに現れた。
初手はつき二度目はなどか切らざらん 石見がえぐる穴を見ながら
貞享元年(一六八四)、稲葉石見守が堀田大老を仕止めたのに比べて、未熟な腕を笑っている。
少将で吉良れぬ物を二タ刀 浅いたくみと城はあかほぞ
吉良の家中は吃驚したが、浅野の家来も青天の霹靂である。
一家中梅若どこじやないといふ
翌日は三月十五日の梅若忌で、向島あたりは梅若詣でにかこつけた花見の連中で賑わう。 当時、この事件を知った江戸ツ子が、大名や高家などという自分たちには関係のない上つ方の騒ぎを面白がっていた様子がよく窺われる。中には事件の原因に言及して、学のあるところを披露している川柳もある。 顔赤穂させたが事の起こりなり 餌をかはぬが鷹の羽の落度なり 進物の安井が事の起りなり 塩甘く見て上野は舐め過ぎる
刃傷の原因は各説あるが、吉良にたいして進物があまりにも少なすぎた、というのが落首や川柳などの一致した見解である。人に物を教るのに相応の金品を持参するのはきわめて当然である。女房を質に置いても義理を果たすことを生き甲斐とした江戸ツ子にとっては、しみったれた田舎大名は軽蔑に値するものであったに違いない。 鷹の羽は浅野家の紋である。 安井は江戸家老安井彦右衛門のことで、この安井が進物をしみったれた、ということになっているが、大名家には幕府との折衝、他家との外交のために留守居役というものがある。日夜、公費で花街遊廓、酒席などに出入りし、幕府の要人、他藩の外交祖当者と会談して情報を入手し、国許の物産の売捌きなどを円滑に運ぶように取り計らう。もちろん要路への進物なども他藩に遜色のないように気を配る。武芸一辺倒の人物には到底つとまる役ではない。
赤穂浪士の中でも今だに人気のある堀部弥兵衛金丸は、当時この江戸留守居役をつとめていた。この事件の責任の一端は弥兵衛金丸にあるはずで、安井は同盟に加わらなかったせいで、後日、損な立場に立だされてしまった。
踊り子へ気ばっかりさと堀部いひ
の川柳が、後日、硬骨の順固着に仕立て上げられる弥兵衛。当時七十四歳の実像を語っている。踊り子は芸者のことである。 この事件の結果、浅野家は断絶、領地 は召し上げられ城は明け渡しとなった。 吉良には何の御咎めなし。この改易についての赤穂城下の庶民、領民の国家老大老大石蔵助に対する批判はきわめて痛烈である。
大石は鮨の重しになるやらん 赤穂の米を喰いつぶしけり あかほとはいへど腐った心かな このしろはりもうれぬ浪人 塩々ととけて家中は離散する
この落首には、一坪(普通は六尺四方)を五尺二寸四分四方と計算したうえに、六割四分という苛烈な年貢をとった浅野家と、その国許の責任者大石に対する積年の憤怒がみられる。のち新しい領主が来て五割八分年貢となり、領民は浅野家が潰れてよかった、と赤飯を炊いて祝ったという。
しかし町人(商家)は利にさとい。浪士が本懐をとげたのを機に、たちまち観光名所としての赤穂や、とんだ事で有名になった赤穂塩を売り出そうと、浪士ゆかりの地を各所につくり、大石様々というありさまで今日に至っているが、人の心はあさましいというか逞しいというか、利に繋がりさえすれば黒を白に変えるぐらいのことは商人にとっては朝飯前である。
江戸っ子と赤穂浪士
翌十五年十二月十四日の夜半過ぎ、四十七人の赤穂浪人が本所一ツ目の吉良邸に押し入り上野介の首をとった。吉良にとっては度重なる災難で、以後は落首も川柳も一変して吉良の悪口ばかり。 それに比べて赤穂浪士の評判の良いこと。吉良方の遺族や縁者はこの江戸ツ子の豹変ぶりには相当に腹を立てたに違いない。
江戸ツ子の軽薄で見栄っぱりでおっちょこちょいという性格が、その後の川柳に彷彿として描きだされる。江戸ツ子はもともと信念があって討ち入りを論じるほどの者ではない。ただお祭気分でワッジョイワッショイと浪士たちを褒めあげ、浪士の誰々は自分の親類の友人のそのまた誰々の妹が嫁いだ先の同じ長屋にいた、などということを、鬼の首でも取ったように喚きたてているにすぎない。
名を惜めおしむないのち赤穂衆 御主人のかたき吉良せ玉へや
主従に二度に吉良れて今日こそは 胴と首との別れなりけり
内匠馴の腕はなまくらだが家来の志は、と江戸ツ子は感心し、その行動を批判でもしようものなら袋叩きに遭いかねないありさまだった。 浪士の討ち入りに至るまでの話は面白おかしく講談や芝居に仕立てられ、虚実入り乱れて江戸ツ子を喜ばせ、浪士たちはいろは仮名になぞられて褒めそやされる。 ただし、「いろは」は四十八文字で四十七ではない。 四十七士の個々の浪士についての川柳は数多いが、いずれもほとんど愚劣なものばかりである。そのうちのごく一部を書き出して、当時、江戸っ子がどんなふうに受け取っていたかを見てみよう。 【四十七士】 武の手本末世に残るいろは塚 侍の一粒えりに仮名をつけ 仮名書の手本に残るいい家来 より出せばあさの実たった四十七 【大石内蔵助】 右七野は大きな忠と不忠なり 仮名手本いの宇は京で佗び住居 固いはづ塩できたえた国家老 【大石主税】 大石の子に主税とはきついこと 裏門をちからまかせにぶち砕き
堀部安兵衛は巷間もっとも有名な浪士だが、江戸川柳に登場することは極めて少ない。後世、創作された話が多すぎるせいかと思われる。 【堀部安兵衛】 安兵衛は敵冥利のあJる男 【潮田又之丞】 潮田は湧くが如くに切って入り 【岡野金右衛門】 乳母と恋広い館を探る為め 【大高原吾】 大高の紙へ其角が別れの句 大高は先づ門番を鷲掴み 鷹の羽の矢は一筋に桑の弓 子葉が底意其角も汲取れず 【不破獄右衛門】 名は不破と云へど勇士の獄右衛門 【寺坂吉右衛門】 すの字は拙者拝領と吉右衛門 【大石瀬左衛門】 忠臣さ腹は覚悟の瀬左衛門 【原総右衛門」 総右衛門切腹すべき苗字也 【竹林唯七】 すゝ竹やと林ほど担ぎ すゝ竹を売り来たのは竹林 竹林先祖は虎も住んだ国
川柳では竹売りは大高より竹林としているものが多い。
【間十次郎】 煙草屋ぢやないかと云ふて袈裟に切 煙草屋が夜に入って来る十四日 【富森助右衛門】 仙台が出たをば知らぬ富の森 【矢田・矢頭】 半弓で矢田を矢頭も射て廻り 【横川勘平】 竪川を出ると横川先に立ち 【神崎与五郎】 与五郎は爛酒売で忍び込み
浪士団に加わらなかった高給取りの大野九郎兵衛もいい材料となっている。
黄金もござる筈だと大野いひ 配分に四の五のくだをいふ憎さ
浪士のうち世俗にたけた者は、物売り・商人などに身を変えて、吉良邸内を探ったということになっている。播磨屋は播州赤穂を意味するが実際に屋号に国名を用いては計画がぶちこわしになる。
播磨屋が煙草はいいとうっそりさ 播磨屋の小間物見世も手だて也
討ち入りの夜、蕎麦屋に集まり身仕度をととのえた、という話が講談種である。
手打そばうどん華の咲く下地也 蕎麦を食ふ武士は見馴れた煙草売 引時に蕎麦屋もよめた桑の弓
その夜は雪が降っていた。
花の仇雪で打ちたる本望さ 年来のうらみは雪の中で解 その夜には氷も降った吉良の家
吉良の家来にも名を残した人もいる。
【小林平八】 かゝる処へ小林は義士の邪魔 【清水一学・和久半太夫」 和久清水呑んでかゝれといろは組
忠臣蔵後日談
上野介は白綸子の寝巻のまま、炭小屋 に隠れていたところを発見された。
白無垢で炭部屋悪い隠れどこ 白無垢は屋根へ逃げぬが運のつき 一門の顔まで炭でよごすなり 白無垢のいとど目に立つ炭俵 むくむくと炭が動いて百年日
本望を達した浪士たちは泉岳寺の主君の墓前に集合する。途中、汐留の伊達家藩邸肺で仙台の家中に呼び止められ、訳を聞かれたうえで粥をふるまわれた。
蕎麦腹で本望達し粥を喰ひ いさましい鷹を雀が出てとがめ
浪士たちは泉岳寺で墓前に吉良の首を供えた。
首一つ九十四眼でにらみつけ
後日、浪士たちが切腹後、後家となった妻たちが墓参に来たであろうという想像のもとに、川柳がもっとも川柳らしさを発揮するのが次の句である。
高輪の花屋に来るも来るも後家 其当座後家牛町をどうろどろ
牛町は泉岳寺に近い高輪の町である。 大石という人は心底からの女好きであったらしい。のちに三男大三郎は広島の浅野本家に千五百石の高禄で抱えられ、父親ゆずりの好色のため鼻が落ち、フガフガ言いながら七十過ぎまで長生きをした、という。落首がある。
大石がめし出されしも内蔵のかげ 鼻の落ちたもまたくらのかげ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年11月23日 16時36分37秒
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