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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2020年12月21日
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古事記 『日本の古典名著』総解説

 

     自由国民社   発行者 長谷川秀記氏著

    一部加筆 山梨歴史文学館

 

       上・中・下三巻から成り、上巻に神代の物語(神話)を、

       中巻に神武天皇から応神天皇まで一五代の歴史を、

       下巻に仁徳天皇から推古天皇まで一八代の歴史、

合わせて三三代の歴史を収める。

日本の建国史を神話伝説を主としてまとめあげた、現有する最古の典籍。

【大要】

天 地が初めて分かれて以来、高天原(たかまがはら)には次々に神々が化成するが、その末に現われた伊邪那岐・伊邪那美の男女二神は天の沼矛で柔かい国土を掻き回し、先から垂れた塩が積もってできたオロコロ島に下って

結婚する。二神は天の御社を立て、男神が

「私の身は段々にできて成り余ったところがある。それをそなたの身の成り合わぬところに刺しふさいで、国生みをしよう。」

と女神を誘い、御社のめぐりを左右からめぐりあって、

「あなにやし、えをとこを(ほんにまあ、よい男よ)」「あなにやし、えをとめを(ほんにまあ、よい女よ)」と言いあって交わった。

 その結果、()蛭子(るこ)が生まれたので流した。二神は女神から先に声をかけたのがいけなかったのだとして、御社のまわりをまわりなおし、今度は男神が先に声をかけた。二神はついに成功し、次々に島々を生み、神々を生んだが、最後に火の神を生んだので、女神は体を焼かれて死んだ。

 男神は黄泉国へ女神を訪ねて行ったが、腐って蛆のたかった女神の体を見て逃げ帰り死の国の穢れを祓うため、日向の橘の小門(おど)()()()(はら)に来て禊祓(みそぎはら)た。

左の目を洗うときに天照大御神、

右の目を洗うときに月読命、

鼻を洗うときに須佐之男命が誕生した。伊邪那岐神は、この三神に命じてそれぞれ高天原・夜の(おす)(くに)

海原を分割統治させた。

 ところが須佐之男命はこれに従わず、亡き母伊邪那美の住む国へ行きたいと、泣き叫んでやまないので、怒った伊邪那岐はこれを追放する。須佐之男は姉天照大御神に事情を話そうと高天原にやって来るが、高

天原を奪うものと誤解した天照は武装して天の安の河にこれを迎え対決する。

 二神はここで誓約(うけい 一種の占い)をする。天照は須佐之男の「剣」を、須佐之男は天照の「まが玉」をそれぞれ口に含んで噛みに噛んでフーッと吹き出すと、須佐之男の出した息からは男神が、天照の出した息からは女神が誕生した。須佐之男の剣から化成したのが女神であったからとて、須佐之男に悪しき心のないことが判明した。ところがこの神は勝ち誇ってしきりに乱暴する。

 怒った天照は天の岩屋戸に隠れた。高天原は真暗になった。八百万の神々が相(はか)はかった結果、天宇受売(あめのうずめ)(みこと)は、岩屋戸の前で神懸りし、乳房も露わに、裳のひもを女陰におし垂して、裸で乱舞した。神々はこれを見て嘲笑した。天照は何事かと岩戸を開けたので、高天原は再び明るくなった。神々は須佐之男に様々の制裁を加え、追放した。

さすらいの神須佐之男は頭と尾が八つに分かれる()(またの)大蛇(おろち)の犠牲になろうとする櫛名田比売(くしなだひめ)とその老父母に出会った。須佐之男は老父母に命じて酒を呑ませ、これを飲んで眠る大蛇に切りかかってみごとに退治した。このとき大蛇の尾から発見された草那(くさな)()の剣は、後に皇室の三種の神宝の一つになった。

 櫛名田比売を妻とした須佐之男は須賀の地に来て宮殿を営んだ。雲が盛んに湧くのを見て、

 

八雲立つ 出雲八重垣 妻龍みに 八重垣作る その八重垣を

湧き立つ 雲の八重垣よ。

妻と住む家をとりかこむ 垣根。その雲の八重垣よ。

 

と須佐之男は歌った。

 

 須佐之男の六代の孫は大国主神。この神は慈悲深い。

兄弟の八十神たちは稲羽の八上比売の美貌を聞き知り、揃って夜這いに出かけるが、この神に荷を負わせて後に従わせた。神々は()()(さき)であった八十神たちは残酷にも、海の塩水を浴びて風に吹かれよと教える。白兎の体はいよいよ痛んだが、最後に通りかかった大国主は、慈悲の心を以って、清水に漬かり、蒲の花をまいて伏せよと(さと)したので、そのとおりにした白兎の傷は癒えた。

 そのとき白兎が予言したとおり、八上比売は大国主の妻となったので、八十神たちは妬んで大国主を迫害した。

須佐之男の住む根の堅州(かたす)国に難をのがれた大国主は、ここで須佐之男から様々の試練を受けるが、その娘須勢理比売(すせりひめ)の助力を得て克服し、姫を妻としてもとの国に帰り、八十神たちを征圧して、芦原中国の支配者となった。

 一方、高大原では天照大御神が、芦原中国は我が子孫の治めるべき国だとして、天菩比(あめのはひの)(みこと)(あめ)(わか)日子(ひこ)などをその平定に派遣するが効果がない。最後に派遣した(たけ)御雷神(みかづちのかみ)とうとう大国主の子の神らを服従させたので、大国主もこれに国譲りをした。かくして中国は平定され、天孫邇々(てんそんにに)(ぎの)(みこと)が、その支配者として、日向の高千穂の峯に降臨する。

 天孫邇々(てんそんにに)(ぎの)(みこと)の子火遠理命(山幸彦)は、兄()(でりの)(みこと)(海幸彦)の(つりばり)を借りて釣りをするが、鈎を海に落して失う。いくら償いをしも兄神は許さない。山幸彦は塩土神の助けを借りて海神の宮に渡り、遂て帰る。山幸彦は豊玉毘売の与えた塩盈(しおみつ)玉・塩乾(しおひる)玉を使って兄を懲らしめ、服従させるが、後を追って海辺に至り、山幸彦の子を産む豊玉毘売の姿を、約束に反して覗き見したので、姫は海へ帰ってしまう。

白兎の傷は癒えた。           

 この姫の産んだ子天津(あまつ)()高日子(こひこ)波限(なぎさ)建鵜(たけう)()草葺不合(やふきあえずの)(みこと)の子が、神倭伊波礼毘(かみやまといわれび)(この)(みこと)(後の神武天皇)

である。(以上が上巻)

 

神倭伊波礼毘吉命は、濫々瀬戸内海を渡り、河内から大和へ進攻するが、登美毘(とみび)()に妨げられ、兄五瀬命を戦傷のために失って後退、紀伊水道を下って熊野から再上陸し、八咫(やた)(がらす)の先導で吉野に入る。宇陀の兄五瀬命を戦傷の為失い後退、紀伊水道を下って熊野から再上陸し、八咫烏の先導で吉野に入る。宇陀の兄宇迦斯(えうかし)弟宇迦斯(おとううかし)其の他の蛮族を倒しつゝ、遂に宿敵登美毘(とみび)()をも征圧して、大和を平定、橿原(かしはら)の宮に即位した。

 

第十代崇神天皇の御代には疫病がはやった。天皇の夢枕に立った三輪の大物主神は、これは自分の心によるものであること、()()多多(たた)()()(大物主の子孫)をして自分を祭らしめればよい、と告げた。この人物を探し求めて祭らしたので、疫病は止んだ。

 

活玉依毘売(いくたまよりびめ)という美しい乙女のところへ毎夜通って来る男があって、素姓の知れぬままに姫は孕んだ。父母の教えるのに従って男の衣に糸をさしておいた姫は、その糸が三輪山の奥へ続いているので、男を大物主神と知った。()()多多(たた)()()は、この姫の生んだ神の子の末裔だった。

 

 第十一代垂仁天皇の御代には、天皇の(きさき)沙本毘売(さをひめ)が、その兄沙本毘古王にそそのかされて、天皇を殺そうとしたが果たせない。天皇は事情を知って沙本毘古を攻めた。后は兄の陣中に逃げ、天皇の子を産ん

だ。天皇は何とか后とその子とを救おうとしたが、子だけを得たのみで、后は兄とともに陣中に焼死した。

 

 またこの時代に多遅彦(たじま)()()は、天皇の命を拝して常世の国に渡り、不老長寿の妙薬と「きじくの(かぐ)の木の実」を得て帰ったが、天皇はすでになくなっていた。この実はいまの橘だという。

 

(やまと)(たけるの)(みこと)

 

 第十二代景行天皇には、(やまと)(たけるの)(みこと)という皇子がいた。乱暴者で手がつけられない。天皇は恐れて熊曾征伐に派遣したが、建は女装して巧みに宴席の熊曾建に接近し、これをも知謀を以って殺害し、揚々と凱旋した。

 ところが天皇は、まだこの征旅の疲れもとれぬうちに、今度は「東方の荒ぶる神々たちを平定せよ」と命じる。ここにいたって建は嘆きの人となった。

 今度の旅は苦難が多い。相模国では、国造にだまされ、野の中に孤立し、周囲から火を放たれるが、出征の途中伊勢に仕える姨倭比売(おばやまとひめ)から贈られた火打石とによって、草を払い、迎え火を放って助かった。浦賀水道を渡るときは神の怒りで海が荒れた。最愛の妃弟橘比売(おとたちばなひめ)を犠牲として、ようやく渡ることを得た。

 苦しい征旅の帰途、伊吹山の神を倒そうとしたときに、ちょっとの油断から相手を侮りその妖気におかされて、建は鈴鹿山のほとりの能煩(のぼ)()において、ついに最期のときを迎えねばならない。帰り着けない懐しの大和をしのんで、

 

倭は国のまほろば 

たたなづく青垣

  山隠れる 

大和しうるはし

 

大和は良い国だ

幾重にも述なる青垣

その青垣の山に囲まれた

大和はうるわしい。

 

と建は歌った。やがて大和から来た妃や御子たちの追い行く先を、建の霊は白千鳥となって西を指して飛び、天の彼方に消えたという。

 

● 『常陸国風土記』によれば、昔、倭建命(やまとたけるのみこと)がこの地を訪れた際、新しく掘った井戸の水に于をひたすと、衣服の袖も共に濡れた。「袖をひたした」というところから「ひたちの国」と名づけられたという。

 

神功皇后

 第十四代仲哀天皇の后である神功皇后は新羅を征伐し、大和に帰ろうとした。そのとき大和では、香坂(かこうさかの)(おう)(おし)(くまの)(おう)が反逆し、皇后の御子の到着を待ちうけて殺そうと図るが、皇后の軍は巧みに敵を斯いて、反乱を平定した。この御子は位について応神天皇となる。

 

 応神天皇

天皇はあるとき、御子大山守(おおやまもり)(みこと)大雀(おおささぎ)(みこと)の二人に、

「年上の子と年下の子とどちらが可愛いものか」

と尋ねた。

大雀命は

「年上の子は成人しているが、年下の子はそうでないから心にかかり可愛いものです」

と答えた。

天皇はこの言をよしとして大山守命に山海の部民の統轄を、大雀命に天下の政務を執ることを、そしていま一人の子宇遅(うじ)()和紀娘子(わきいらつこ)に皇位を継ぐように命じた。

 ところが大山守命はこれに反逆して、皇位を得ようと和紀娘子の殺害を企てた。大雀命は和紀郎子に協力して、この反逆を平定した。和紀郎子は大雀命に皇位を譲ろうとし、互に譲りあったが、和紀娘子が早く死んだので、大雀命が即位することとなった。仁徳天皇である。(以上が中巻)

  

仁徳天皇

 

仁徳天皇は聖帝である。あるとき高い山に登り四方を眺め、国内に煙の立つところの無いのを見て、炊飯もままならぬ民の貧窮を思い、三年間の課税・労役を免じた。

宮殿も荒れるにまかせた。その後また四方を眺望すると、煙が国中に満ちていたので天皇は大層喜んだという。

 ところがこの聖帝には、石之日売命という大変に嫉妬深い皇后がある。吉備の黒日売(くろひめ)の美貌を聞き知って、天皇がこれを妃に召したが、皇后の嫉妬を恐れて故郷に逃げ帰った。

たまたま皇后の留守中に、天皇は田若郎女(やたのわかいらつめ)を召したが、それを知った皇后は宮中に帰らず、天皇の再三の呼び戻しをも退けて故郷の大和葛城へ帰って行った。

また庶妹()(とり)(おう)を召そうと、庶弟(はや)(ぶさ)(わけ)(おう)を媒人として派遣するが、これも皇后を恐れて従わず、速総別の妻になりたいと言う。二人は恋の逃避行の末、ついに共に死んだ。

 

 第十九代允恭天皇の崩後、その皇子女で同母の兄妹である()(なしの)軽太子(かるのたいし)軽太郎女(かるのおおいらづめ)とは、ともに美貌で相愛の仲となり、密かに結婚した。禁じられた行為が発覚して、とうとう太子は弟の穴穂皇子に捕えられ、流されることになった。

 

天飛(あまだ)む 軽の嬢子(おとめ) 

いた泣かば 人知りぬべし

()()の山の 鳩の 下泣きに泣く

軽の娘子(おとめ)よ。

 

(激しく泣いたら人が知ってしまう。波佐の山の鳩のように忍び声で泣くがよい。)

 

と大子は歌う。太郎女は、そののち恋情に堪えられず、ついにあとを追って行き、ともに死んだ。哀切な悲恋物語である。

 

 第二十一代雄略天皇は、感情のことさらに豊かで激しい天皇であった。

様々の求愛物語に彩られているが、ある時美和(三輪)川のほとりで引田部(ひきたべの)(あか)猪子(いこ)という美しい童女を見、

「あとで召し上げるから結婚せずにおれ」

と言って、そのまま忘れてしまう。

赤捨子は年老ゆるまで待ったが、天皇から何の沙汰もないので、せめてこれだけ待ったということだけでも知らせようと、天皇のもとに参上した。驚いた天皇は様々の禄を与え、しかしその老いの姿を見て召すことをせずに帰らせた。

 またある託慧、長谷の(つき)の木の下で酒宴をしたが、采女(うねめ)(地方の豪族の家から宮廷に出仕した女)の献ずる酒杯に槻の落葉が浮いているのを見て激怒しすぐさま刀をぬいてその采女を殺そうとした。采女が殺される前にしばしの時を請うて、槻の葉のめでたさにことよせて天皇を讃える歌を献じたので、それを聞いて天皇は心なごみ、許した。

 

第二十二代清寧天皇の崩じたのち、天皇の位を継ぐ者が断えた。播磨の国司山部の子を発見する。弟が先に即位して顕宗天皇、続いて兄が即位して仁賢天皇となる。この仁賢天皇以降椎古天皇までは系譜的記事(帝紀=解題参照)のみで物語がない。(以上が下巻)

 

 

昭和54年1月、奈良県の茶畑から、『古事記』の編者である太安万侶の墓誌が出土した。

厚さ1ミリの銅版で、

左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶

以焚亥年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳

 

の字が記されていた。

 

● 解題

 

筆録者の太安万侶の序文によれば、『古事記』は元明天皇の和銅五年(西歴712年)正月に完成した。天武天皇が生前、諸氏に伝わる「帝紀」や「本辞」(旧辞)の正実に違うところを改め後の世に正しく伝えようとして、舎人(とねり)稗田阿礼(ひえだのあれ)に命じて「帝紀」「旧辞」を誦み習わせた。

その後しばらく撰録の事業は行なわれなかったが、三代後の元明天皇の御代に到って、天皇は天武天皇の遺志を継ぎ、大安万侶に命じて、阿礼の誦習するところのものを撰録させた。『古事記』はこうしてできたというのである。

「帝紀」は天皇の系譜的資料、「旧辞」は皇室や氏族に関する伝説的・物語的資料であって、現有『古事記』を見ると、第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの部分、第二四代仁賢天皇以下の部分などは、「帝紀」的記事しかない。それらの部分の「旧辞」は伝わらなかったものと思われる。

 原文は、安万侶が序文に示すとおり、音訓併用の和式漢文体をもって書かれ、固有名詞・歌謡など、また殊に重要な古語などは、なるべく尊んで一宇一音の音仮名で記している。

 神代以来の国の歴史を綴っているが、『日本書紀』に比べると、例えば、別伝を併記したり、実年月日を記したりせず、全体の三分の一を神代の物語(神話)に当てている点など、史書としての客観性に乏しく、中には文学的潤色に富む物語も見える。倭建命の東征物語や、木梨之軽太子の悲恋物語などは、その中でも殊に優れたものである。

 神話・物語は、その太極は『日本書紀』と変わらないが、『書紀』のそれが、完成した専制的古代国家の国家機構の頂点に位置する天皇を支える、新しい天皇観に立って描かれるのに対し、『古事記』の場合は、それよりも前代の王権の所有者としての天皇の姿を活写しており、素朴な氏族伝承の生来の姿を、かなりなまでにとどめている。文学性もそこに発すると考えてよい。

 本書には神話・物語中には総計一〇〇首以上の歌謡が収められ、句数・一句中の音数・形態などは多様であるが、万葉の和歌の前史を知るうえでも、和歌文学の発生史を考えるうえでも、貴重な資料となっている。物語のために作られた歌と、既成の儀礼歌などを物語にあわせて挿入したものとがある。        (この項・森 朝男氏著)






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最終更新日  2020年12月21日 07時32分20秒
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