山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2020/12/21(月)20:02

下諏訪に残る和泉式部伝説

歴史 文化 古史料 著名人(720)

下諏訪に残る和泉式部伝説 歌碑を訪ねて 宮坂万治氏著あさかげ叢書 第七十八篇   平成10年刊 歌碑を訪ねて刊行委員会編     一部加筆 山梨 山口素堂資料室 和泉式部歌碑 長野県諏訪郡下諏訪町来迎寺  あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな 和泉式部伝説で知られている下諏訪町の引接山来迎寺に、長野の善光寺の一条智光上人の揮毫の美しい文字の歌碑が建てられた。 碑の歌は小倉百人一首の中から選ばれており、この来迎寺の鉄(かな)焼(やき)地蔵にまつわる伝説から、地蔵尊の御開帳と下諏訪町でオープンした「鎌倉街道ロマンの道」の開設にともない建てられたものであり、諏訪地方の和泉式部伝説のある古い宿場町の寺が選ばれたのである。その伝説と言うのは、冷泉天皇の時代に、現在の諏訪市中洲中金子の小泉寺近くに生れた百姓の娘の「かね」は、父母に先だたれ、下諏訪湯屋前の別当方に奉公したが、「かね」は大変信心深く田畑に行く時も、弁当の御飯を少しづつ毎日手向けて通るほどの信仰ぶりであった。ところが同僚が別当に告げ口したことから、もとより無慈悲の別当の妻は怒って、焼火箸を「かね」の額に当ててせっかんし火傷をおわせた、「かね」はあまりの痛さ悲しさから、地蔵尊の前に膝まづいて、これを告げると、傷は地蔵尊の額に移り、傍らの出湯に顔を映して見ると、不思議なことに「かね」の額の疵は綺麗になっており、「かね」の心のように顔も美しくなっていた。するとこの様子を見た主人夫婦は、その奇異と霊験に驚き、これからは善人に立ちかえり、かねを自分の娘のように可愛がっていた。  然るにその頃、京都の貴い方がこの別当の宿にお泊りになり、「かね」の容顔美麗に心奪われ、京に連れ帰ったことから、大江雅致の息女となり、天延二年(974)には橘の道真の妻となった者が、和泉式部その人であると言うのである。 又、茅野市玉川の栗沢の小泉山観世音は式部の信仰仏であったと言われ、又、諏訪市の温泉寺の殿様ご廟の下の古い五輪塔やこの来迎寺境内にも、和泉式部の墓と言われる古い五輪塔が現在もある。 史実の和泉式部は、大江雅致の娘で和泉守橘道真に嫁したが冷泉天皇の皇子である為尊親王と恋に陥ち、道真と離婚し又、親王の逝去後はその弟の敦道親王にも愛されて、情炎に式部は身をこがしたが、相次ぐ内親王の死にあい、一条天皇の中宮の彰子に仕え、後には藤原保昌と結婚するなど数多くの恋愛体験者であったという。 和泉式部の活躍した平安中期は、文学的に女流歌人が活躍した時代でもあり、後宮を中心に教養のある女性が集められ、そこに洗練された芸術的雰囲気をもったサロンが成立した時代でもあった。 式部の歌には つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天降り来むものならなくに黒髪の乱れも知らずうち伏せばまづ掻き遣りし人ぞ恋しき後までは思ひもあへずなりにけりただ時のまを慰めしまに などがある。 歌碑は、下諏訪出身の彫刻家大和作内の力作の「おかねの像」の右側の鉄焼地蔵尊のお堂の前庭に、高さ三十五cm、横一m二十cm板の基礎の上に高さ二十cm、横八十cmの自然石の台石を据え、高さ七十五cm、横五十三cmの碑石を建てて、磨き上げた面に歌が刻まれていた。 

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る