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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年01月07日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室
武田信玄講座 貨幣
   現在の通貨制度の基を考えた武田信玄
  定位金貨のはじめは甲州金



引用資料『歴史と人物』所収  特集「日本の人物と貨幣物語」
昭和57年刊
「貨幣価値と戦国武将の金銭感覚」



甲州金から万延小判まで、命貨変遷の歴史をたどり、背後にある時代の流れをときあかす

  引用資料『歴史と人物』所収
 昭和57年刊
  「大判小判物語」瀬戸浩平氏(貨幣研究家)著

 定位金貨のはじめは甲州金

 古くは、遣唐使が朝責品のなかに砂金を欠かさず、学問僧や請益(しょうやく)生が滞在費なとに携行し、その後の交易にも、日本側からの物資の大宗に砂金があった。元の勿必烈(ふびらい)に仕えたマルコポーロが『東方見間録』のなかで、見たこともないジパングを黄金の国とよんでいるのも、わが国が産金国として靱認識されていたことを示している。砂金の通用を脱し、金が成型化された金貨になったのは、出金の採掘がはじまった室町後期のことであった。それを蛭藻(ひるも)金といい、蛭藻は沈水草の蛭蓆(ひるむしろ)ことで、その葉に似て細長い楕円形をしているところからそうよばれるようになった。表面に、上あるいは千の字、また雁が飛んでいる図のものもあって、それぞれ上字金、千字金、雁金金と呼ばれている。
 それらの蛭藻金は、おそらく京都にあった金の買い集め商人の手によって、任意的につくられたものであろう。
 画家・尾形光琳の先祖は雁会屋と称する商人であった、といわれているが、光琳の画に金泥がふんだんに使われているところからみても、あるいはその雁会屋は金扱い商だったのではあるまいか。
 そのように蛭藻金は任意的なものであったから、金質も一様ではなく、量目もいちいち秤量しなければならない不定量貨幣であった。
 金のもっているあの色・光沢とともに、その稀少性、耐酸性、伸展性、分割性などの特性は、そのまま金属貨幣としての必須条件でもある。

 その特質を最もよく理解していたのが甲斐の武田氏であり、信玄であった。武田氏は領内に黒川、保山(ほうやま)ほかの優秀な金鉱があったばかりでなく、永禄十一年(1568)に今川氏を攻めて、富士、安倍などの金山を手に入れている。

 武田氏はその豊富な産金を使って、志村、山下、野中、松木の四家に命じ、はじめての定位金貨をつくらせた。それまでの蛭藻金などにくらべてはるかに進歩的なもので、露一両あるいは碁石金とよばれる

   一両      (重さ四匁=一五グラム)
   二分、一分   (一両の四分の一)
   一朱      (一分の四分の一)
   朱中      (一朱の二分の一)
   糸目      (一朱の四分の一)
  小糸目      (糸目の二分の一)……(便宜上、後述をここに記載)
  一分朱目中糸目……………………(便宜上、後述をここに記載)

 などの単位別金貨があった。
 その他に、小糸目(糸目の二分の一)までの小単位があったが、実際にはあまり小さすぎるせいか、例えば一分朱目糸目といったような、複合単位の刻印を打ったものもある。
 さらに金と銀との交換比率についても、金一両=銀四十八匁(180グラム)替えと決められていたから、その比率は金一に対し、銀十二であったことになる。
 武田氏の強さの背景には、伝えられる軍略のほかに、この周到に整備された貨幣体制を主とする治国があったことを忘針れてはならない。のちに、甲州を領したことのある家康が幕府治政のなかに、この制を取り入れることになる。(略)

   引用資料『日本の貨幣』 日本歴史新書

「第三章 金銀貨の形成」
  小葉田淳氏著 昭和34年刊

 (略)
 ……文化八年閏八月に加州侯が大阪にて金灰吹目方五十貫目を払ったことがある。二十二双替で文銀でおよそ千二百貫目であったという。その目方は、一個十匁あり二十匁あり軽重あって、いずれにも小さき極印があり「甲州の露小判のごとし」と記している。これが、藩初期に通用した秤量貨幣たる判金に外ならない。

 (略)

 十六世紀の金貨を考えるうえに、甲州金(甲金)の事実も問題となる。甲州金は武田時代にはじまるといわれ、江戸時代を通して甲斐一国を限り免許され、都留郡を除いてほかの三都に主として通用した。
 武田以来判金鋳造人に松木・野中・山下・志村の四家あり、慶長年間大久保長安が甲斐の金山を支配し判金鋳造をも宰領した。甲金に、一両・一分・二朱・一朱・朱中などの金貨があるが、家康のとき定められたともいう。一両判で、松木小判のような丸判で、量目四匁より、四匁五分のものがあり、その内には所伝のように武田作代の製作にかかるものもあろう。
 しかし十六世紀中に主に通用した甲金というのは、碁石金・まね判・露小判などといわれたものや、竹流し金などであろう。甘竹流金は灰吹金(即ち灰吹金)で極印なく大小あって軽量あり、まね判(真練り判)も同じく灰吹金で、露小判はまねりの灰吹金を量目四匁をもって作り極印を打ったものという。
 また田-州の竹流しには極印があるという。以上は皆、秤量によって通用したもので、判金または判金に准じたものといえよう。
 文禄三年(1594)三月、「浅野長政」より甲府町「朝日かもん」宛ての木綿段銭請取状によれば、「野口新兵衛判」の金子計二枚七両四分七厘を受領している。この判金は切り遣いを含む秤量貨幣である。
 甲金の通用法として、朱中(一朱の二分の一)・糸目(朱中の二分の一)・小糸目(糸目の二分の一)秤量のである。
 駿河安部郡井川郷は永禄末年武田氏の支配力及んだが、天正十年十一月同地の土豪海野元定が書きとめた年貢帳によると、同地方が産金地である間係から畑・屋敷その他を金で納めた分が少くなかった。ところで例えば郷内の上田の屋敷年貢として、屋敷により一朱・朱中・いとめ等の年貫の差があることが記されている。これ明らかに甲金の秤量法が慣用されたものである。ただしこの金が判金をもってあてたかどうかは明らかてない。『慶長見文集』によると、家康が江戸入封の天正十八年より文禄四年武蔵小判の鋳造までは江戸では四条、佐野・松田の三人が、「砂金を吹きまるめ、一両・一分・一朱・朱中などと、目をも判をも紙に書付」これが通用したという。家康は守随の甲州秤を分国中に使用させたが、これも甲州金の秤量法である。紙に書付とは封包のことらしいが、封包された吹金(灰吹金)はやはり判金が多かったと思われる。云々

 引用資料『歴史と人物』所収  特集「日本の人物と貨幣物語」
昭和57年刊
「貨幣価値と戦国武将の金銭感覚」

  「貨幣価値と戦国武将の金銭感覚」

『多聞院日記』の記載によると、当時、金一枚、すなわち十両大判一枚で三十石から六十石の米が貫えたことがわかる。現在はもちろんメートル法で「石」などといういい方をしないが、今日の米価を「石」に換算してみると大体一石あたり六万円という勘定になり(前掲宮本又郎氏論稿)、したがって、金一枚は、今日の貨幣価値に直して大体百八十万 円から三百六十万円ということで、間をとっても二百五十万円ということにはなる。な お、銀も一枚という数え方をするときは十両をさし、同じような米価による換算ていけ ば、約五十万円ということになり、金一両が銀十両にあたるというのとはややちがってき ているが、金十両が二百五十万円、銀十両が五十万円という大体の目安で計算算していく ことはできる。
 周知のように、秀吉は天正十七年(1589)金賦(かねくばり)ということをやって
いる。その年の五月二十日、秀吉は聚楽第に一族・公家・大名を集め、金六千枚、銀二万 五千枚を分配したのである。ほぼ天下が治まり、恩賞として与える土地がなくなったため、金銀をばらまいたといういい方もできるが、秀吉のもとに天下の金銀が集中しつつあった状況をうかがうことができる。ちなみに、さきの金一枚二百五十万円、銀一枚百五十万円という数字で計算すると、秀吉に実に二百七十五億円もの金をばらまいたことになるのである。
 前述したように、天正十年(1582)、
 甲斐の武田勝頼が滅亡する直前、穴山梅雪が黄金一千枚をもって信長に降参していったが、仮に一枚が同じ十両大判とすると、穴山梅雪は五○億もの巨額な金を積んで信長への帰属が許されたということになる。戦国武将の金銭感覚の一端がうかがえて興昧深い。
 
武田といえばも一つおもしろい話がある。
 
天正六年(1578)、上杉謙信が死んだあとを二人の養子、すなわち景勝勝と景虎の二人が争ったときのことであb上杉景勝は長尾政景の子で、謙信の甥にあたり、一方の景虎は北条氏康の子で、初名を氏秀といって、はじめ武田信玄の養子となり、武田氏と北条氏が不和になって小田原に帰され、さらに謙信の養子となってきていたものである。
 謙信の死は突然のことだったため、後継ぎを誰にするか定めていなかった。そのため、死後すぐに二人の間で後継ぎ争いがおこったのである。景勝がすかさず春日山城を占拠し、景虎の方はいわば追いたてられる形で近くの御館(おたて)というところに入った。これが「御館の乱」とよばれるものである。
 この御館の乱にあたり、景虎の実家である北条氏は、時に景虎の兄氏政の代にあたっており、景虎が上杉の当主になれぱ好都合であると考え、早速援軍を送り、さらに甲斐の武田勝頼にも援軍の派遣を求めた。というのは氏政の妹、つまり、景虎にとっても姉にあたる女性が武田勝頼のもとに嫁いでいたからである。そのあたりのやりとりが『北条記』巻四にみえる。すなわち、
 さてこそ三郎方(景虎)の上州衆も悉く敗軍して中々景勝をせめんと云儀なし。此事小田原へ飛脚を以被申間、則北条治部大輔・太田大膳・遠山丹波・富永四郎左衛門・毛呂・勝呂其他軍兵二万余騎にて、越後へ加勢のため発向すべき由被仰付、甲州の勝頼へも御馬を被出、不日に景勝退治可有との儀也。勝頼承て、巳に人数を出し越後追伐あるべきとの儀にて出馬ある処に、景勝使い以て侘事被申は、今度三郎退治仕り候はば、上野一国を進上仕、御縁者に被仰付候はば、一方の御先を可仕間、ひらさら此方へ御加勢可被下との儀也。其上謙信多年掘らせ置きた金(こがね)ども悉く進上申、勝頼の両出頭人、日比賄賂に耽(ふけ)る由聞及び、長坂長閑斎・景勝跡部大炊助に数千両の金をとらせ、色々佗事申せば、両出頭人此金に目がくれ、上野一国御手に可入事、何より以第一也。三郎殿御縁者なれども、別に御得分なし。信玄の御世にも・氏真は甥なれども、駿河の御手に入れんとて、敵にてあらずに、信玄公は退治ありし。是は又御縁者まで也。御一門にはなし。
其上景勝勝御先手に加り侯はん事、先以目出度辛也。唯景勝方へ御合可然と皆々勧め申候間、勝頼、景勝と和談し、責玉ふ。
 とある。
 景勝は、もし武田勝頼の軍勢が景虎を応援するようになれば厄介な事になると考え、謙信以来貯えられていた黄金に、よって勝頼を調略しよナとはかったのである。すなわち、勝頼の重臣である長坂長閑斎と跡部大炊坊に数千両を贈り、しかも、勝頼には「上野一国をさしあげれる」という約束で味方にするよう働きかけたのである。結果をみると、勝頼は景勝側に属した。そのため、景虎は御館を攻められ、ついに天正七年(1579)三月二十四日、鮫尾(さめがお 現在、新井市籠町)で自刃してしまったのである。『北条記』が憤瀬やるかたないといった筆致で

勝頼今度大欲に耽り義理をちがへ三郎を殺し玉ふ

 と批難しているのもわかるような気がする。
 とにかく、この武田勝頼ほどではないにしても、戦国武将はかなりドライな金銭感覚をもっていたことは碓かなようである。とはいえ、やはり、金のために動いた長次長閑斎と跡部大炊助に対しては批難の声があがったことは、
  
金故に松木に恥を大炊どの尻を居上ても跡部なるかな
無常やな国を寂滅することは越後の金の修行なりけり

 といった狂歌が残されていることによってもうかがうことができる。「松木」は上杉の重臣をさしている。戦国も末期になると、金がものをいう世の中になりつつあったのである。





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最終更新日  2021年01月07日 05時14分51秒
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 Re:武田信玄講座 貨幣    現在の通貨制度の基を考えた武田信玄   定位金貨のはじめは甲州金(01/07)   zenbee さん
はじめまして、

>甲斐の武田勝頼が滅亡する直前、穴山梅雪が黄金一千枚をもって信長に降参していったが、

黄金二千枚とされている記述もあります・・・
この事に関しての根拠がどこに有るのか、私には分かりません。

教えていただければ幸いです。 (2021年02月19日 15時25分45秒)

 Re[1]:武田信玄講座 貨幣    現在の通貨制度の基を考えた武田信玄   定位金貨のはじめは甲州金(01/07)   山口素堂 さん
zenbeeさんへ (2021年03月01日 05時25分09秒)

 Re:武田信玄講座 貨幣    現在の通貨制度の基を考えた武田信玄   定位金貨のはじめは甲州金(01/07)   山口素堂 さん
穴山梅雪が武田から離れたのは天正3年の長篠の戦いの頃からです。その理由は、梅雪は戦いに参加せずに甲斐に引き上げています。
また、かれは江尻城の城主となり、徳川家康とも近い位置にいました。

 彼は天正十年、武田滅亡の折にも信長や家康に情報の提供をしていたとも思われます。この裏切り行為は信長や家康にとっても危険なな存在でした。
 勝頼に韮崎に新府城へ移転を勧めたのも、攻めやすいようにさせたもので、孤立ささるためだった思われます。本拠地をこの時期に移動することなど尋常ではありえません 彼は武田の後に甲斐の領主となるべく早くから工作していたと考えられます。
 本能寺変の折に、家康に同行して帰りに死去しますが、これさえ家康の予定通りの行動だったのかもしれません。信長・家康にとっても各種の鉱山を支配する穴山雪梅は最高の利用度もあったのでしょう。
 新府城周辺の武士団も誰ひとりとして勝頼に味方しませんでした。 (2021年03月01日 05時51分39秒)

 Re[1]:武田信玄講座 貨幣    現在の通貨制度の基を考えた武田信玄   定位金貨のはじめは甲州金(01/07)   山口素堂 さん
zenbeeさんへ
(2021年05月13日 05時19分37秒)

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