山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/01/17(日)20:59

内藤宇兵衛のアメリカ 明治開化期英学の余響 保坂忠信氏著

韮崎市歴史文学資料室(63)

 内藤宇兵衛のアメリカ 明治開化期英学の余響 保坂忠信氏著 『中央線』1973 第9号    保坂忠信氏著    一部加筆 山梨歴史文学館  1907(明治四十)年五月二十日、月曜、ペンシルベニア州の古都フィラデルフィアはやや冷えびえとした五月晴れの則を迎えた。全米でも三位の発行部数を誇っていたフィラデルフィア・インクワイアラー紙の一面トップを埋めた三枚の写真と記事は、同州レアナィング市民のカリフオルニア観光団五十数名が列車事故にあって、内十四名の遺体の悲しい出迎えに関するものであった。その記事のすぐ下に、「アメリカの暖い友情をミカドに打電」という大見出しで、ロンドンの国際赤十字社会議出席の途中立寄ったという日本代表四名の記事が朝食の市民の目をひいた。その二年前に日露戦争が終結し、その和解促進の功で大統領シオドー・ローズベルトは前年ノーベル平和賞を贈られ、日本の国際故治への登場が始まると、アメリカの近代国家日本への関心はよきにつけ、あしきにつけ鋭くならざるを得なかった。記事は、ミカドはこの国の反日感情を探るためこの四名を任命せられたと書き出し、昨夜当市に到着、アメリ国民の間には何ら敵意が見出されなかったと発表している、と続ける。「わたしどもはシアトルに上陸匿サンフランシスコに赴き、公立学校におこった話題(エピソード)を調査しましたが、両国民間のちょっとした感特上のことで何ら重要なことでなく、事は既に収まり、アメリカ全土の対日態度は敵対的でなく友好的と思われます。我々は歓迎、接待にあずかり感佩しております。ミカドにはこの事情を明記して数日前電報でご報告申し上げてあります」と東郷マサタケ日赤事務局長の談をかかげ、彼は有名な海の戦士東郷提督の甥であり、日赤は陸軍省の一部門で、この両者の気持は一致しているので反日感情絶無との発表は一層重要性をもつものであると注を添えている。この四名というのは、東郷の外男爵小沢タケオ将軍(貴族院議員、日赤副社長)、ミリオネア・バンカー(百万長者の銀行家)貴族院議員ウホイ・ナイトウ(内藤宇兵衛)と東京大学東洋語言語教授、S・カナザワ教授(註・金沢庄三郎文博、「広辞林」編者)である。 小沢男爵は赤十字創設者の一人、陸海両省の顧問の一人で、日露戦争には地上即戦計画に活躍し目下ニューヨーク訪間中の黒田大将の親友であると紹介、社説ペ-ジの「編集余録」では「バンザイは一万年の意である。クロキ万才の際にはこれを思いだすこと」と軍事強国日本歓迎の気が横溢する。「ワシントンより来市の一行は土曜、タフト陸軍長官(注、ローズペルトの後継者、二十七代大統領となる)らの午貴会に招かれている。昨夜八時すぎ到着、四室続きの室を予約してあるベルビュー・ストラットフォードに宿泊、二日間滞市後、ワシントンに戻り、ローズベルト大統領訪問、三日後離米、イギリスに向うが、ニューヨークでは日露戦争後飢饉の北日本農民救血資金募集に貢献したクロプシュ博士(注・クリスチャン・ヘラルド紙社長)に旭日章を伝達している。「十時半には馬車を連ねリーグ・アイランド旅行に向う予定。」と詳細な報告ぶりである。二十世紀初頭はアメリカエ業化が始まって間もない頃で、この日の社説「ガソリン世界」には、一昨土曜日の当市自動車カーニバルは本市では初めてであり、全米他市に先鞭をつけたものである。十年前には本市には自動車は殆んどなく、婦人で「ドライブ」出来るものは一人も無かったことを思うと昔日の感がある。全米の登録自動車台数は十二万五千で「馬が本市から消える」のも間もないことであろう、と述べている。宇兵衛は自動車も利用したが、シカゴ、ワシントン、ニューョークでは大抵馬車を用いたのである。宇兵衛は「農業国から睦工業国の域に進」んでいると彼が報告するアメリカ風景の中の旅人であった。 彼は持前の凡帳向さで「欧米視察日記」を四月十七日、六千四百トンの日本郵船安芸丸乗船から九月十四日竜王駅下車まで、毎日精細に記す。(「直屋 内腿一宇兵衛」昭和十七年四月発行、嗣子、一橋大名誉教授 内藤章発行及び著)。「今日の国民はただに義勇公に報じ国家のためにその身を捧ぐるのみを以て足れりとしているが平時にあってはその愛国の精神を傾けて活ける経済の発展に努力しなければならない。即ち能く死すことを知ると共にその能く活くることを知らなければならない」は日露戦争直後の欧米視察の総括的感想であるが、経済日本を目ざしながら明るい豊かな生き方を指示していて、教養と実際生活がバランスをえた地方のミリオネア・バンカーの現実的人道主義が前面に押し出されている。 宇兵衛は世襲名で、実名直温(なおやす)という。晩翠軒と号し安政六年(1859)年一月六日中巨摩郡常永村(現・昭和町)築地新居の豪農の家に生れ、明治三十七年日露開戦の年勅選貴族院議員となり、五ケ月にわたる欧米視察旅行にでかけたのは同四十年四十九才の時で、既に有信銀行(明治二十八年 1895)山梨馬車鉄道会社(明治三十一年 1898年)の創立者の一人となり、インクアイアラー紙に「ミリオネア・バンカー」と呼ばれるのにふさわしい白壁の八つの米倉をもつ屋敷の主人公であったのである。彼は明治十一年(1878)十九歳の時同年輩の住吉村の豪農の長男浅尾長慶(後に衆議院議員、故浅尾新甫 日本郵船社長巌父)と二人で各々決めた責任分担を決め。公用関係は朝尾、塾の一切は内藤と、互いに                    に「約定書」まで取りかわして、東京築地の居留地に住むカナダ、メソジスト宣教師C・S・イビーを「緑町英学義塾」教師の名目で甲府に招いたが、これは「英語で科学(学術)書をよむ」(イビーのカナダヘの報告)ためであった。東京迄笹子越えでも、富士川下りでも三日を要する時代であった。併し翌十二年には浅尾が「天性愚魯洋書に通じ難く」と漢字に戻り、内藤は会話(正則英語)より発音には構わない読解(変則英語)を目的として特にイビーの通訳・助手(後に甲府教会四代目牧師)の浅川広胡(ひろみ)についたが、結局専問の経済書などについては西村茂樹や伴直之助らの翻訳書に頼らざるを得なかった。今彼が「多年の願望に従い洋行の決意なし…視察を企てた」のは「開国進取の国是を定められて以来日進月歩品位高まると共に国家経営もその趣を異にして、在野論客の経費節減なる標榜は影薄くなり、尚増税の止む無き説さえあるに至る。所謂欧米強大国の実況如何」を見る爲だった。それは20世紀初頭のナショナルリズム勃興を背景に地方実業人はアメリカで何を見たのであろうか。シアトルでは「一昼夜一万俵を製造する(一億五千斤入)製粉会社(ユニオン・ヤード)「会社構内一哩四方にして豚羊一時間千頭殺す。それより三十分にて製肉。牛一列千五百頭」「西東三街をかこみ職工一万五千人を使用し、一時間廿銭内外の雇用、機械進歩し俄に雇いたるものにて間に合うゆへ休業の憂なし。一ケ年汽鏙三千台以上を造り、一台二万円としても六千万円を出す世界一の工場なりと」というフィラデルフィラのベルウィン製鉄会社。ニューョークでは、「鉄骨建築の鋲締に電力を使用する。紐育の地下は岩石なり。地下墜道の費用は莫大ならん。電力にてうがちダイナマイトを使用する由。比隣自由に使用する。其の巧みなる推則するに足る。」併し若獅子のようなアメリカの産業文化に圧倒されながらも環境対策、都市計画を見落さず文化生活を一体として把えているのはさすが教養主義に生きてきた経済人の目である。「バッハロー、ウードロン墓地清潔閑雅美術的」「フィラデルフィア フアモント公園 周囲五十哩、樹木に富み天然の密林をなす」「街路の事、石造、木造、アスファルト、並木、排水、掃除、地下鉄道、高架鉄道、植樹局四百万円(東京市費二倍)」「公園の事 紐育中沢公園八百四十二エーカー(三千三百七十二町歩)紐育の目板の地価(一尺平方四百円内至廿八万八千円)神戸一坪千円(日本最高価)」簡潔要を得た報告である。彼の実体は・ミリオネア・バンカーというよりも、英米でも殆ど消滅した「カントリー・ジェントルマン」教養主義的豪農階級の一員であったといってよい。「国家」と「社会」と「個人」夫々の独立と尊厳を重んじ、その三者のバランスを実際生活に実現しようと努めた地主達の一人であった。北巨摩の八巻九万(高根町)や東八代の加賀美嘉兵衛がそうであった。この階級はわが国でも同じ運命をたどっている。「長男は家を愛し、次男は国を愛せよと申されし由にて、他家の者にでも長男と知られて訓戒されたものです。云々。」(章氏夫人、内藤文子氏の「父上の思出」)自由人的愛国者の息吹が感じられる。 イビーはカナダから持ってきたベビー用寝台と食器皿などを内藤家に残していった(藤村記念館にあるもの)。内藤が乞うたのか、イビーが白熊に記念のため贈ったのか、いづれにしてもこの二人の心の絆の象徴は内藤家の蔵に大切に保存されていたものである。二人の出会いはイビーが三十三才、内藤が十九才で、十四の年令の違いは長兄と末弟の関係である。強固な日蓮宗信者であった内藤を誠実なカントリー・ジェントルマンとしてイビーは敬意を払っていた。内藤が絶えず夢みる熱烈な宣教師からうけた影響は少なくなかったであろう。イビーが去って後、彼の最初の通訳であった神学博士平岩恒保(よしやす)の説教を傾聴したり、内村鑑三「後世への最大遺物」バニヤンの「天路歴程」トルストィ、スマィルズ、ミルトン「失楽園」などのキリスト教文学を愛読しているのである。日蓮上人遺文集を始め日蓮宗、仏教の専問書はいうに及ばず、ソクラテス・二宮尊徳・福沢諭吉・山路愛山・夏目漱石・樋ロー葉・河上肇「貧乏物語」吉田絃二郎と読書範囲も広く、生涯、細かな日課を立てて読書に親しんだことは、彼に世界的視野で現実生活をながめる余裕を与えた。恐らく彼はカントリ・ジェントルマンの美質を発揮した最良の人々の一人であった。 五月十七日の日記にはニューョーク州の州庁の所在地、「アルバニィヘ、ブラク氏と同乗、ノルマンディなる紐育の宿を辞し、ホドソン河客船に乗り出発す。アルバニィ会は、最寄にて毎一月、州にて毎四月、全国にて年一回開催し(全州のは順次開催)その毎四月会の一なり、州の新聞雑誌記者及び主なる者、党の如何に拘らず集り、大統領不在の時は摂理する議長も来会し、会員総数 三百五十人なる由。」とあるが、全員、賓客に配布された赤表紙のしゃれたポケット版小冊子で同じ色の箱に入っているものをみると、「アメリカ定期刊行物出版業者協会第四回年次総会」と金文字で書いてあるので、実は、全国の年一回の集会の方であったらしい。当夜の食卓のスピーカーは七名でこの冊子に夫々の手札版ポートレートが出ていて、向い合いのページには石版刷り漫画と一家言を載せるという凝ったものである。下院議長キャノン、ィエール大学長ハドレー、ニューヨーク州知事ヒューズ、ブルックリン・イーグル誌編集長マックルウェィ、ワールズ・ワーク誌編集長ページ、ピアリー海軍提督らで、賓客、会員の名簿がそれにつづく。優に三百名をこす文化人の集いで、賓客中にはアンブロウズ・ピアスもいる。「生の只中で」(一八九一年)など南北戦争の異常な心理的体験を手材して、芥川竜之助が愛読、紹介した短編作家で英語教科書にも出てくる。ジャック・ロンドンがいる。「野性の呼び声」 一九〇三年)で我国にも有名な、社会主義作家である。異色なのはE・ハスケルで本県の生んだ大英学者永峰秀樹(明野町出身)が明治十一年「家政要旨」として「抄訳」し(「一八七五 明治八)年米国新約克(ニューヨーク)刊行、甲府内藤伝右衛門出版」)「一家の経済ヲ仕義シテ我邦居家必要ノ諸章余ス所ナシ」と文明開花のため自信満々で紹介、山梨女子師範学校の教科書ともなっているものの原著者、ハスケル夫人と思われる。イギリス人では後に桂冠詩人となった詩人、随筆家ロバート・ブリズベスとウィンストン・チャーチルが招待されている。モーニング・ボスト紙の従軍記者として南阿戦争に活躍し、この会の前年には父親の有名な伝記「ロード・ランドルフ・チャーチル」を著したばかりの、三十二才の自由党議員であった。「六時半着。七時半より順次出席。会食すむ頃演説始り、要所には喝采度を合せ、楽隊迄調子を入れる其熟練、本邦の及ばざる所。会は一時頃までかかる。腹の具合少しく異り注意し平常に復す。」前菜リットル・ネックス(びのす貝)に始まったホテル・テン・アイクの豪華な晩椴もカフエ・ノワール(黒コーヒ)は出つくし、鉱泉水アボリナーリスとリキュールとコニヤックとそれに葉巻がでる頃から賑やかなアフター・ディナー・スピーチが始まった。このディナーのメニューに詞がそえてある。「われら馬車にて来り、しゃべり、喰らい、かつ、飲みぬ。食事配られるたびご当時の文人に知られた歌の引用であろうか。イビーを招待したかっての英学の学生、宇兵衛にとっては終生の思い出となったであろう。 五月二十三日には、「十二時大統領謁見、即ち所謂白宮に出る。内部の壁すべて白色なり。待つ事暫くして大統領の室に進む。霜降フロック、コートを着。眼鏡を用いて居り立って握手、云々」県出身埴原正直書記官(後にアメリカ大使)が案内している。 五月二十五日、フィラデルフィア号一万干トン(「安芸丸の比にあらず」)でロンドンに向う。滞米二十五日間をふり返って「北米合衆国の批評」としてまとめている。「其の産業発達驚くに堪へたり。其の経営の大規模なる他に匹敵を見ず、全国統一を缼き、統一的方策を採る能はざるを遺憾とす」、ひきつづき視察した英独仏で受けた教育の普及奨励に対する感銘と、北米でうけた超六産業国の強烈な印象とは正に対照的である。あれから世界大戦を二つ経た今日も日本の旅人はほぼ似た感想をいだくかも知れない。  (昭47・11・3) (米文学・英学史)

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