カテゴリ:歴史 文化 古史料 著名人
信長殺しの犯人は家康 本能寺の変
『八切止夫 日本史裏返し』 昭和46年七月二十八日 刊
一部加筆 山梨県歴史文学館
本能寺の変
「表面だけでもおとなしく見せかけているほうが、よいところからお嫁の口がかかってきて得だし利口な生き方だ」 と思われるような時代には、女性は優しく穏やかそうに見せかけるものだ。しかし、そうでない世だと、なにも猫を被っていることはないのだからと、女性の中には勇猛ぶりを発揮する者もいる。 「戦国時代」というのは、毎日々々戦いの連続だった。そのため、おとなしく見せかけていて始まらぬので、女性が、とても強く、おこりっぽく、そして乱暴だった。このことを、まず初めに頭に入れてほしい。
なにしろ自分万死のうとも思っていない人間を、他人が消してしまうのは犯罪であり、そして今でもよく、 「犯罪の陰には女性が居る」 というから、そういうことをもついでに考えてほしい。 それともう一つ、信長のことを「故右府」とか「右府さま」と人が呼んだように俗書には書かれているが、信長がまず、 「内大臣」になったのは、天正四年十二月から翌年までで、 「右大臣」になっていたのも天正五年十一月から翌年春までで半年とやっていない。あとは朝廷の言付けをみな断ってしまって、野人のまま天正十年を迎えている。 そこで公家では、信長を手なずけるため、人臣では最高の「太政大臣」の位をもってしたが、信長は拒んで近衛前久をもって充ててしる。 そこで手をやいた公家では天正十年五月二十九日に上洛して本能寺へ入った信長のところへ六月一日は、当日は大雨なのに五摂家を初め四十余人のお公郷さんが押しかけている。 武田征伐のため信長の長子信忠が、武田から来ていた嫁を離縁しているので、その後に皇女のお一人を降嫁させるための相談だったが、信長の妻奇蝶が、これを信長への降嫁と勘ぐったというのが当特の見方であった。
さて、時は大正十年(一五八二年)六月二日‐ 京都の四条仙洞通りにあった本能寺へ泊まっていた織田哲長の一行は、その日の夜あけ方つまり午前四時頃に完全に包囲されてしまった。 歴史家の称する人の中には、忠臣蔵の話から思いついて、 「前日たくさんの公卿を招いて大茶会を開いた。そこで皆がぐっすり寝こんでいるところを襲われた」 と、説明する人もいる。 これは前日集って来た中の山科権中納言言経の日記の当日の欄の、ずらりと公卿四十人の名前を書いた後に「茶子之有、大慶」というところから、故意に舞筆しかものである。この場合は、「御茶受けに煎餅が出た」位のところでないとおかしい。なぜかというと、信長の茶湯の担任である役向きの者は、この日、堺の松井友閑のところの本物の茶会に出席している。 現在なら堺と大阪なら、忙しいタレントなら掛け持ち出演もするだろうが、四百年前の自動車もなかった時代に、「茶頭」とよばれた宗匠が馬に鞭うって、「ハイヨ、ハイヨ」と往復しても、とても両方へ出られるわけはない。 それに松井友閑は信長に云い付けられた堺の輸出入長官であり家来である。 信号が茶会を開くものなら、堺で別に開催するなどという邪魔をするわけがない。 それに松井友閑の、まるでデモをかけたみたいな京都中の公卿が本能寺へ集ったのは、単なる遊びごとや風流の茶会でなかったことが一目瞭然である。 また、その堺の茶会というのは、五月二十九日に信長が突如入洛するや、泡をくって堺へ逃げた家康への為のものである。ということは、安閑は、信長の命令で「軟禁」するために茶会を開いたということが考えられる。 次に、この六月二日の朝は、斎藤内蔵介の姉婿の四国の長曾我都信親を討って、領土を三男信孝のものにしようという信長の四国遠征軍が、住吉浦から出帆ということにもなっていた。 さて小姓三十名に馬の口取り仲間三十一名の信長の一行は、寺の周囲を包囲されてしまった。 そして午前七時半に……
(この本能寺から五十メートル足らずの所にあった三階建てのイゼス派教会堂のカリオン宣教師の書簡によれば)
「その声を聞くどころか、ノブナガと名を口にするだに恐ろしかった人が、髪の毛一本残さずにふっとばされてしまった」
と、いうのである。このとき全然遺骸が見つからなかったことについては、「当代記」といった史料や、他のいろいろなものにも出ている。これまでの説では、
「信長が弓を引き、槍で突きまくったのち、一室に入って火を放ち、焼け死んだ」 と、いうことになっている。しかし本能寺という寺は日蓮宗のお寺で、屏もなく、四方に二メートル弱の濠があり、そのさらった土を盛り上げて築地とし、その周囲に木戸口が五つあったきりである。 「敵はいく万ありとても」という歌があるが包囲しているのは一万三千で、味方が三十一人では、一対四百である。 だからして、もし槍を奮って戦ったりしたら、それこそ、ワンランドでノックアウトされ、自分から火をつける余裕などはなく、戦いは僅か数分で済んでしまう筈である。 それが三時間半も持ったというのは、相撲の取り組みみたいに、制限時間いっぱいまで、 どっちも手を出さなかったからである。
次に、もし信号が放火したところで、周囲を囲んでいる連中が、一万三千もいるのだから、 「信長殺し」が主目的ならば、その首を獲るべく我先に火を消し、手柄を奪いあいするのではあるまいかとも考えられる。 なにしろ焼けて証拠がないことには、褒美が貰えぬからだ。 なのに、皆なぜ、ぼんやりしていたのか? 「世紀の大魔術」のように、忽然として信長が消えてしまったというのは、これまた、どういうことなのだろうかとなる……。
光秀にはアリバイ
さて、やはり山科言経の日記にも、信長の遺骸が髪の毛一本も見つからぬから、どこかに生存しておられるのだろうというので、このために、 「京都中大騒ぎをし、どこにいるのかリル」 と、信長を探していたことが、六月二日から三日、四日、五日と連日にわたって書いてある。 そして日記の六月六日以降はだれかに破られたまま伝っている。 つまり一般には、七日か八日になってもまだ、信長生存説、が強かったのである。
ところがここに日本版預言者ヨハネのごとき男が現われてくる。その名を秀吉という。 本能寺の変が安土城に知らされたのが二目の午後なのに、遠い備中高松城を攻めていた秀吉が、三日の晩に、これをキヤッチするや四日の朝に休戦している。そして、 (お膝元の京都でも、信長はどこかに生きている) と、まだ生存説が盛んなのに、透視術というか、テレパシーの霊感みたいに、 「信長公は死んでいる」と予言し、六日に姫路城へ入ると、すぐさま「葬い合戦をする」と宣言したのである。 そして当時、京都を押えていた明智光秀を山崎円明寺川で討つと、すぐさま、これを各地へPRし、 「わしが信長さまの仇討ちをした」と触れ回った。この間か正味十一日。 だれが考えても、あまりにも手際がよすぎる。京都にその事件当日いた者にとっては、
(明智光秀代本能寺が吹っ飛び、信長の跡目の信忠が立て籠もった二条城もバカンと爆発した後の午前九時ごろに姿を見せ、午後二時には帰った)
という今日でいうアリバイまである。 私が、これを『信長殺し光秀ではない』に書いたとき、通俗歴史屋から、 「なにも、先方が姿を見せなくとも、リモート・コントロールで部下を指揮できるではないか」という反論もあった。しかし、天下人の信長殺しを、光秀が、もし部下に命じたものならば、家来の彼らは手柄をたてようとして争って証拠品の信長の首を獲ったはずである。せっかくの獲物を吹っ飛ばし、髪の毛一本も残らぬような状態にするわけはない。 それに、はっきりしていることは、本能寺を包囲したのは、丹波亀山の兵たちだ。 なのに、先秀は六月二日から死ぬ日まで近江坂本を足場にしていて、まるっきり丹波亀山へは一度も行ってはいない。 光秀が命令したのなら、彼は自分の本城だから遠慮なく亀山と連絡をとるはずだし、自分でも二度ぐらいは行くべきである。それをそうしなかったということは…… (六月二日から丹波亀山の兵は、先秀以外のX氏かY氏の指揮下にあった) ということになる。 日本ラインで名高い犬山城は、以前はもう少し下流の木下村にあって、いまの犬山市役所辺りが「水子城」とよばれていた。秀吉の妻ねねは、そのころ木下城の城主だった木下党の流れである。 だから、 ねねの父、木下助左は織田家武者奉行、 ねねの兄、勘平は織田家鉄砲奉行、 ねねの妹の夫の父は御弓奉行浅野又右。 を務めていたが、天正十年の頃には、ねねの姉の婿である杉原七郎左が、場所もあろうに丹波亀山に続く福知山三万石の城主であった。今日の通俗歴史では、 「秀吉が光秀を倒したあとで、杉原七郎左を丹波福知山城主に取りたてた」 ことになっているが、その福知山に昔からある御霊神社には、杉原七郎左が城主だったころに納めた「相原系図」というのがある。 それには、はっきりと「天正九年福知山城主になる」 とある。つまり天正十年六月の本能寺の変のときには、杉原七郎左は備中高松攻めに行っていたかもしれないが、福知山に残留していた家来は、丹波亀山勢の一部にはいっていた。これはまぎれもない事実である。 さて、この当時秀吉は光秀が犯人だと言い触らしたが、当時の、特に京にいた連中はこれを認めていない。このため、秀吉は後に、六月二目に二条城に居たことのある誠仁(ことひと)親王を害し奉ったり、あまつさえ、
(ときの正親町帝を廃さんとした。主半が立腹されて食を絶って宝寿を縮めようとなされるや、秀吉は、主上の中宮や女御を磔にするとまで脅し申し上げた)
といったような不敬事件まで起こした。 なにしろ信長の旧部下の諸将から疑惑の目を向けられていたから、保身のために、そう とまでしたのだろう。 真相は、 (本能寺へ押し寄せた一万三千の中に、秀吉の妻の兄の部隊が混入していたから秀吉は備中にいながら、すでに事前に本能寺の変の起きるのを予期していて、六月二日以前から敵の毛利方と和平交渉をしていた)のだろう。
彼は信長のもとへ援軍を求めていたが、
(信長が二日に死ぬことがわかってからは、なにも恐れることも遠慮もいらない)
と、すぐ和平交渉に入ったのだろう。 そうでなければ、四目の朝に敵城主清水宗治らを自殺させて開城、そして引き揚げるなどという旱手回しに、とても事が運べるわけはない。 無条件和平でも交渉ごとというのは、双方直接にではなく仲介人がはいるから、半月も一ヵ月もかかるものなのである。
さて、本能寺は、包囲後三時間半で、いきなり大爆音と共に突然爆発して吹っとんでしまった。これは従来の日本には輸入されていない強方所火薬を使った結果でしかない。 天文十二年に鉄砲は日本へ輸入された。 しかし当時の黒色火薬は、 木灰 一、 硫黄 一・五、 硝石七・五 の割合だったが、日本では硝石はとれなかった。これは季節風利用の定期航路のマカオ~堺間の舶によって輸入されていたものである。 そのマカオの支配者であるポルトガル国王の宍セバスチャン一世が、モロッコヘ攻めこんで戦死したのが、本能寺の変の起きる四年前のことだった。そして当時は南米チリの鉱山を開発し、その硝石を用いた、「強力黒色火薬」を持つスペインのフェリッペ二世が、マカオも押えていた。 しかし火薬輸入のエージェントもかねる当時の宣教師は、古い火薬から処分したほうが儲かるから、日本の大名には、彼らがいくらオベッカ(お世辞)を使って切支丹大名になっても、スペッシャル品であるチリ硝石はよこさなかった。 附記するなら、これが正式に日本へはいったのは徳川秀忠のころで、山田長政が現在のタイ国より二百斤届けたのが初めてである。 ところが六月一日まで大雨が降り、びしょぬれだった本能寺から、その裏手のサイカチの森まで爆発させたのは、チリ硝石の最新火薬だったことはまちがいない。 そして本能寺は一階建でだが、そこから一町も離れていない四条坊門の天主教の公会堂兼火薬販売エージェントの建で物は、当時としては高層建築の三階建てでバルコニーつき、ここの長老師父のオルンガチーノは、カリオン坊主にあとをば任せ、六月二日の朝、長い草鞋を履いて九州の目的地まで逃げてしまった。 スペイソ兼ポルトガル国王フェリッペ陛下は、なぜか知らねど、オルンガチーノのマカオヘ戻ることも禁ぜられた。 すると秀吉は、天主教を弾圧して他の青い目の坊主どもは追っ払ったが、オルンガチーノだけは特別に保護して侍女まで何人有つけて、日本で幸せに生涯を送らせた。 マカオ並にヴァチカン司書館には、このときの左のような史特有現存している。
【註一】 聖庁国務省 ゴア教皇使節 代理 わが親愛なるドン・フランシスコ殿
愕くべきことに、この邦に革命がおきた。 デンカと呼ばれる王と、その王子が謀殺。 寝込みを襲われて焼き殺されてしまった。 サカイ(堺)やキョウ(京)の富裕な市民が支持した王政は倒れ、 アケチ(明智)の革命軍が貧民階級の支持によって、 勝利をおさめた。 難民たちの掠奪騒ぎが続き人々は地方に疎開している。
だが、僅か十一日目に、ヒデヨシ(秀吉)とよぶ農村出身のプロレタリアートが彼を殺して情勢は又かわった。 何故、アケチ(明智)は革命を起したか。いったい誰の命令で、今まで仕えていた王を殺害したのかと、みんな色々と噂しあっている。 黒い霞にすっぽり包みこまれてしまった、この東洋の国にも、われらの神のご守護と、祝福のあらんことを。アーメン
1588年6月30日 忠実なる天帝の下僕、コメス修道士
【註二】 神聖なる陛下の命令により印度国王の位にある ドン・ドアルテ・デ・メチゼースヘ
イスパニヤ国と新たにポルトガル国の王を兼ねる神聖にして偉大なるフェリッペ一世陛下は、東洋における忌まわしい出来事に対して憂言したもうことや、誠に大である。 事は急であって、もはや法王庁の指示を受けている余裕などはないように思われるによって、汝は汝の指揮しうる兵及び艦をもって、この東洋の不祥事を他に洩れぬように防がねばならぬ。 マカオよりゴアヘ到来する者はその地に止めしめて、これをヴァチカンヘ赴かぬよう、汝はこの主命に対して努力すべきである。 (……九州から訪欧少年使節を伴って、ローマヘゆく筈たったワリュヤノも、この禁令に触れ大波に印度に止ることを求められ、とうとう死ぬまでそこの管区長にされてしまった) マドリッドにおいて、 陛下の忠実なる下僕、H・D・アルフォンゾ
【註三】
マカ士におけるイエズス教会総司祭 並びに、神のための学校を育てる、サセント・ゴリアヘ
テンカ(天下)とよばれていた日本のノブナガ(信長)王が、キョウ(京)で爆死をとげた事に関しては、これは、われらは神の御名において何人の口をも封じぬばならぬという事が、きわめて重要かつ大切であり、それが神の思召でもある。 よって、あくまでもイエズス派のバードレや神に仕えるイルマンには、威しい緘口令がしかれねばならぬ。京の教会より慌しくマカオヘ逃げ戻ってきた者共には、これを生涯他と接触のなき僧房にとじこめ、もって神の恵みに縋(すが)るようになさしめよ。 なお国王陛下並びに法王庁におかせられても、今回の東洋における出来事は心痛されていて、追ってしかるべく沙汰が出ると思うが、コメス修道士の書き送ってきたような空々しい報告は、かえって遂に疑惑を生むから、これは注意をさせんことを、ここに神の御名において告げせしむ。 聖庁国務省ゴアに於ける 教皇使節代理ドン・フランシスコ
【註四】
マカ才海軍提督 カピタン・モールに告ぐ
いかかる聖職者や修道者も日本との航行はこれを禁ずる。 支那人の司教といえどもし日本へ渡来している者があれば、 陛下の御名の許に余が命令する。 これを如何なる方法をもってしても捕えマカオに送還せよ。 本命令はなんらの疑念故障をこれに挾まずして、 完全に履行することを命じ、その命令通りするようここに通告する。 尚本書はフェリッペ一世陛下の御名において認可され、 陛下の御玉草を捺印されたものと、まったく同一の効力を有するものである。 この件に関して何人もこれを話すことは許されない。 イスパニヤ、ポルトガル国王陛下の信任による 印度副王ドン・ドアルテ・デ・メチゼース
夫を殺害した悪女
しかし、安土城が六月十五日に焼けたので六月二十七日に、愛知県の清洲で開いた会議では、信長の遺児の三法師を信長の跡目にすることに決めてから、秀吉は、 信長の 二男信雄には、伊勢・尾張二力国 三男信孝には 美濃一カ国
という配分を、諸将に謀って決めた。 信孝は秀吉とともに山崎合戦で先守を破っている。もし光秀、が信長の仇なら、こちらの方が殊勲甲であるべきである。 さて信雄のほうは、六月十三日の山崎合戦のあと、十四日に安土守備隊の光秀の娘婿明智秀満が兵をまとめて坂本へ引き揚げるのを待って、無人の安土城へ十五日に赴き、「安土桃山文化の殿堂」といわれた城を焼いてしまった。 それなのに信雄が殊勲甲というのは何故かというと、その城には、信長夫人の奇蝶がいたからである。現代ならば、 「そんなばかな」というかもしれないが、そのころの人は、 「信長殺しは妻の奇蝶であった」と発表されると、 「そうか、やっぱり女は恐ろしい」と、みな納得をしたものらしい。 つまり清洲会議の結論として、 「第一次の信長殺しは奇蝶こと美濃御前(みのうごぜ)」 と決定した。だから彼女は今でも日本中どこを捜しても、「夫殺しの悪女」とされていて、彼女の墓などはとこにもない。 しかし織田の遺族は、あくまでも、「信長殺しは、秀吉」と思いこんでいた。 織田信雄のごときは小田原攻めのとき、「なんで父の信長を殺されましたぞ」と口外したばかりに追放された。が、秀吉の立場では、どうしても、「信長殺しの奇縁を安土城で焼き殺した信雄」を殺してしまうのは、どうも具合が悪い。 そこで信雄が坊主になって「常真」と名のるや、また一万石で飼い殺しにしてしまった。
家康と松平元康は同一人か
通俗歴史や講談では、松平蔵人元康が、「徳川家康」と改名したことになっている。
するとである。のち築山御前とともに殺される岡崎三郎元康は家康が数え年の十四で種つけして十五歳の時に生れた子になり、その前に、嫁に行った娘がいるから、驚くなかれ、 「家康と元康が同一人物ならば、彼は十歳からパパになった」という結果になる。こんなことが起こり得るだろうか。私の、『謀殺』という本に詳しく書いてあるが、「太政官布告」で「徳川氏はその祖先の地に帰るべし」と布告されると、駿河へ移住してしまうのはなぜだろうか。また、「旗本は三河侍」つまり三河出は冷遇され、他の出身の方が立身しているのも事実で、「徳川家康の家臣団」の中でも、伊勢出身の榊原、駿河出身の酒井、遠江出身の井伊というのはみな太名になっている。 ところが三河者はなぜか冷遇され、一万石以下の旗本で冷飯を喰わされ、本物の松平一族は永禄天正年間にみな捨て殺しされている。なにしろ初めの、「家康の軍編成」は、 東三河衆=石川数正 (本当の三河者) 西三河衆=酒井忠正 (実は遠江駿河)
と、なっているが、石川数正などは、しまいには岡崎三郎の娘婿の三河衆を率いて秀吉の方へ逃亡してしまうような結果になる。 これは「駿州城府時鐘銘」にも、 駿陽(遠州)は東照権現の出生地」と刻まれていたと出ている。 また明治三十二年版『静岡県史料要集』には、 「自分は幼児から十五まではここにいたが、永禄三年五月の桶狭間合戦で今川義元が計たれ、 混乱したときに、浜松で義軍を旅上げさせた」とあり、 「大将軍翁」の名による家康の直筆が、静岡市伝馬町の華陽院府中寺の寺宝に伝わっていたことが明らかにされている。 江戸時代に家康が白分は駿河生れだと自分でいったものが堂々と認められていたということは、これは徳川家でも公認ということになる。 そういえば家康の久能山には家康の廟はあるが、三河の岡崎にはない。 「産湯を使った」という井戸は岡崎公園に接した所にあるが、そんなことは家康は自分で認めていない。第一家康は遠州浜松の引馬(曳間)城を、「浜松城」に改築してから、そちらに住んでいて、岡崎は家康死後も留守居しか置いていない。のち隠居してからも岡埼へなどゆかず、「駿府」に居た。そして家康は三河弁ではなく、「何々ずらよ」といった静岡弁だったことも有名である。 桶狭間合戦のとき、松平蔵人家康は今川義元の先手に狩り出され、のちの川崎三郎元康や上の娘の二人を、その妻の築山殿とともに、人質のように駿府へ擱いてきて、桶狭間合戦の当日は、愛知県の大高城へ、今川の命令で兵糧入れをして、義元の死後、祖先からの三州岡崎へ入って、「解放地区三河」を宣言しているが、後の家康は浜松にいた。 一人の人間が、片や静岡県浜松て義軍を起こし、別に愛知県の三河では、岡崎城主をやるようなかけ持ちが、今日のテレビタレントみたいに可能だったのだろうか。 この謎を解くものに明治二十八年刊行の「三河史料」がある。その中で、 「松平蔵人、山中城を奪わんとする世良田を討つ」の一条がある。この世良田というのが問題なので、松平元康と戦った世良田二郎三郎家康は、このときは、(にせ者が本物に負けて)敗走しているのである。 さて現在流布の大衆小説や通俗史で、 「守山崩れ」と説く元康三代前の事件というのが、本当はこのときに起きる。 元康が誤って家来に斬殺される。そこで、子供の信康は尾張の織田信長の元へ行っている し、自分は俄かに未亡人になって困っている築山御前の所へ敗戦した家康がのこのこと現 われ、 「私か元康殿の身代りとなって信長に会ってきます」 と請け合って清須城へ行き、にせ者のくせに、人質の信康を返してもらうために和平条約を記名調印してくる。そして後見人の格好で収まっているうちに、欲心を起こして、「三河を横領しよう」と考えた結果、彼後見人の信康とその母の築山御前を、うまく理由をつけて殺してしまう。外国ものの推理小説にもあるプロットである。 ところが天正十年、ついに信長から、 「おのれ、偽者のくせに俺を欺いて条約を結んだのはけしからん」と睨まれた。 そこで五月十五日には三千両をもって、安土城へお詫びにいった。が、駄目だった。 五月二十九日には京都にいたが、信長上洛と聞くや船便を求めて堺へ逃げた。ところが、彼らの一行は堺の代官松井友閑に軟禁され、船という船は押えられた。 そこで家康は切羽詰まって斎藤内蔵介に助けを求めて難を逃れた。 さて通俗書は彼内蔵介を明智光秀の家老にしているが、 「信長公記」を見ても、彼は、「信長の直臣」の身分である。天正十年六月当時は信長から派遣された「軍目付」の立場にあった。 だから信長の権勢をバックに一万三千の丹波衆を率い上洛出来たのだし、この造反のため光秀は死ぬまで、本城でありながらその丹波へ行けなかったのである。 これは、このときのカリオン書簡でも 「三河の王イエヤスをノブナガは討たんとして兵を集めた」と明白にかかれている。これは『フロイス日本史』にも入っている。が結局のところ、何も知らせず秀吉も一枚かんでいたから見事に成功。そこで彼家康は内蔵介の娘の阿福を(春日局)にして恩に報いた。 「敵は本能寺にあり」 と、幕末に、頼山陽は、明智光秀を犯人にでっちあげることによって、神君と呼ばれるようになっていた家康を今夏機密漏洩法にひっかからぬように作詞宣伝したから広くこれが信用された。
このナゾを解く引用例証としては、 「寛永系図」の「本多広孝譜」に、 「永禄四年十一月一日付は松平家康と署名なされ候を、翌永禄丑年八月二十一日よりは、苗字ばかりでなく御名まで徳川家康と改名」 とあるのをみても、家康と元康が別人なのははっきりしている。 俗説では家康が幼時拐されて尾張へゆき、少年の信長と仲よしだったという面白くできた話があるが(元康と家康)が同一人だったら、十歳から父親になっているのだから、今川の瀬名御前(のちの築山御前)も、尾張へ行っていないとおかしい。が、そんなことはあり得ない。 また拐したという当人の墓も知多半島田原に近い「大久保」と呼ぶバス停の前の寺に、一族の五輪塔と共にあるが、てんで歳月が合わない。 しかし、のちの岡崎三郎信康が信長の許へ行って居たのなら、これなら話が合う。 「名古屋熟田加藤書之助伝書」という確定史料もあって、十歳では辻褄があわぬがまだ赤ん坊だった信康に作って遊ばせた祇雛の玩具の絵も残っている。 後年信廉の許へ嫁入りした信長の娘の名が、「五徳姫」という名であったのも、信長が赤ん坊の信康を可愛がり、 「信忠、信雄、信孝、そして信康の四人を一つ兄弟のように結ぶ輪になれ」と、火の中へ入れて薬缶を載せる五徳をもって娘の名にした訳は判る。 なにしろ昔は、姓名判断や電話帳をみて命名するということはなかったから、何かしら名前には意味がある。秀吉が淀君の妹を江戸の秀忠へ遣るとき、江戸へ与えるのだからと、 「江与」と命名したようなものである。しかし神君家康が、 「どこの馬の骨か判らんよりは松平元康の変身とした」方が恰好いいし、それに信長殺しの真相も、その噂がばれて斎藤内蔵介に謀叛させたというよりは、無関係であった方がよいと後年になって変えられたのだろう。 しかし家康自身は「これは明智光秀遺愛の槍である」と寵臣水野勝成に与え、貰った方も、 「はい、光秀にあやかります」と言ったが、別に謀叛はしていない。大坂夏の陣では大将を勤め、後、島原の乱起きたとき、福知山十万石だった彼はもう老人になっていたが、「御奉公の時である」と曲った腰に鞭うって九州へ行き彼の手で島原の乱を鎮めている。 つまり江戸初期までは、「明智光秀という者は大忠臣だった」ことになるし、家康自身も、先方に汚名をかけるような男らしくないことはしていなかったことになる。 これは私が、 「信長殺しは光秀ではない」
を発表後、目本歴史学会長故高柳光寿博半がかかれた中からの借用である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年01月19日 19時10分52秒
コメント(0) | コメントを書く
[歴史 文化 古史料 著名人] カテゴリの最新記事
|
|