山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/02/20(土)20:36

理慶比丘尼の武田勝頼滅亡記   『甲府市史』古代中世の文学

甲斐武田資料室(258)

理慶比丘尼の武田勝頼滅亡記 『甲府市史』古代中世の文学 一部加筆 〔解説〕 武田勝頼が天正十年(一五八二)三月、織田信長郡に攻められ、諸方の守りを破られ、新府中の韮崎城内において事 評定の結果、小山田信茂の意見に従い、城を焼き、信茂のよる郡内岩殿山の城におもむく途中、信茂の謀反にあい、天目山に転進するに至った悲憤と困窮の状況を述べ、 終焉の日の勝頼父子・夫人・侍女のけなげな最期や、土屋兄弟をはじめ忠臣の勇敢な最期を、和歌をまじえて記し、その後に、勝頼主従の供養のために、名号歌を添え、筆者の晩年の生活にも言及している。 筆者の理慶尼は、武田信虎の弟勝沼信友の息女と言われ、雨宮家に嫁したが離縁され、大善寺に入って除髪し、庵を結んで桂樹庵理髪足と称し、晩年は相模中郡富岡に閑居し、慶長十六年(一六一一)八月十七日入寂した。 『理髪日記』の史料的価値は少ない。天保八年(一八三七)版の『理髪日記』跋文で、朝川善庵が「多数の和歌は一人の作である」と言い、これ皆誰かが理窟尼に擬作するところである」と言い、辻善之肋博士が「史学雑誌」で、「何者かが理髪尼に仮託した小説であり、史的記述としては価値の乏しい記録である」としている。 『理鹿尼の記』 此武田殿と申せしは、天喜元年、朱雀院の太子、後の冷泉院七十代の帝の御時、陸奥の国貞任・宗任誇り、十二年の戦あり。その時の大将軍伊予守頼義・御嫡子八幡太郎・二男賀茂二郎・三男新羅三郎馳せ給ひて、終に滅し給ふ。彼の宗任・貞任と申せしは、面三尺四方、聲、百里聞ゆる者なり。斯かる悪事の者、失ひ給ふとて、武士といふ字を給はり、新羅三郎の御嫡子にてましませば、武田の太郎と申すなり。勝頼迄は、三十一代にて渡らせ給ふと申し給えけるとかや。栄華を極め、世を保ち給ふ事、また類あり難く御痛はしや。きたの御遊には、青陽の朝には、花鳥に御心を染み、いろねを惜しみ、木の下を慕ひ、歌を詠み詩を作り、また夏末にければ、卯の花・牡丹、涼しき方をもとめ、松が根の磐井の水に、立寄り給ひて、立来る波に、言の葉を寄せ、秋は、さやけき月を友とし、琵琶・琴・和琴・笙・橐篥揃へ、思ひ思ひの夜楽の遊、爪音けだかく引鳴らし、天人も影向なすやとばかりなり。秋風・木嵐打過ぎて、雪の頃にもなりしかば、斯からん時のものまととて、木々の梢に積れるを、花待ちおそしと眺め給ふ。されども、勝頼は、武道のことを忘れ給はず、打臥し給ふにも、鎧の袖枕とし、起きさせ拾ふにも、其事のみ、厳冬・霜雪・風雨を厭はず、弓矢の方へと、赴き給ひしかども、時移り、運命尽き果て給ふにや。木曾殿、謀叛を起こし、尾張の國織田の上總介信長へちうし去る間、都の勢を引具し、木曾殿を先として、討って下り、天正十年壬午三月十一日に、田野の山辺の合戦に、打負け給ふう哀れなる。御痛はしやな。無下なくも、御内の人の変わらずば、仮令、天下勢来るとも、五年・十年の其内は、斯かる程にはましまさじ。 彼の勝頼と申せしは、心武田の家なれば、人には勝れてましませども、御内の侍、悉く心変わりを申されければ力に及ばせ給はず、然れども館を御枕と定めさせ給ひて、何方へも落ちさせ給ふべき御心は、夢程もましまさざりしに、爰に国人小山田と申せし人、母の尼公を、人質に取られ參らせ、それ返さんが計に、仰はさこそ候へども、御身をかたく守り給へ。自らが在所都留の郡岩殿山と申すは、凡そ天下が向き候とも、一時待つべき山にてあり。夫へ御越し、然るべきと申されければ、勝頼、聞召され、これは口惜しきいひごとや。勝頼刹なる間も、今生にあらん程、敵に後を見すべきか。是にて待ち合わんと、大きに御腹立たせ給ふに、小山田重ねて申されけるは、恐れながら申すなり。命を全う待つ亀は、必ず蓬莱に逢ふと伝へ聞く。彼の山に龍り給はば世に出でさせ給ふ事、程はあらじと、申されけれども、御返事のなかりければ、小山田、涙を流し申されけるは、御大将は、さこそましますとも、御臺所未だ莟みて、春待ち給ふ梢の花の我が君様、彼と申是といふ。余りに御心強くも、折に寄りしものをと、かき口説き申しければ、勝頼、げにもと思召し、御館、韮崎を出でさせ給ふ、痛はしやな。御䑓所の、舘へ移らせ給ふ御移の時は、金銀・珠玉を鏤めたる輿車、あたりも輝く計りにて、御供の衆、数知らず、政府より新府のその間、三百余丁と申せしを、よびつる、さしつる移らせ給ふ。 頃は十二月廿四日なりしに、明くる弥生三日には、斯くならせ給ふとて、御名残借しくや思召す。御床に倒れ臥し、涙を流したまふやう、只此處にありし事は、春の夜の夢ほどもなしと、仰ありて、斯くこそ詠じ給ひけれ。    ** うつゝには思ほえがたき此の所 あだにさめぬる春の夜の夢 **                                                   と遊ばして、出でさせ給ふ時は、輿車にも及ばせ給はず、召しも習はぬ御馬に召され、出でさせ給ふが、御名残借しとや思召す。遥に御覧じ、返し、かくこそ詠じ給ひけれ。   ** 春霞立ちいづれどもいくたびか跡をかへしてみかづぎの窓 ** 弥生三日なれば、斯く詠じ行かせ給ふが、人々の気色変わりて見えければ、勝頼を案じ奉り、御馬も進めず立たせ給ひてのたまふやう、など遲なはり給ふぞ。法華経五の巻に、変成男子と云ふ事あり、形こそ、女人に生るゝといふとも、心は男子に劣らめや。勝頼すはと申すなら、先づ我れ先にと思召し、御守刀に、御心を懸けさせ給ひて、落ちさせ給ふ道すがら、昔源平両家の落ちあしと申すとも、是にはいかで勝るべき。其の日も暮方になりければ柏尾と申す所へ着かせ給ふ。御䑓所仰せけるやうは、此寺の御本尊は、薬師如来と承はる。今夜是に通夜し、後の世を祈らばやと思ふなり。南無薬師瑠瑞光如来、自ら最後既に近づきぬると覚えてあり。後の世には、一つ蓮の䑓の縁となし給へと。柏尾は、韮埼より東なれば、東方浄瑠璃世界を、心懸け給ひて、斯くこそ詠じ給ひけれ。    * 東へ行きてのちの世の宿かしわをと頼む御ほとけ * 夜もすがら祈らせ給ふ所に、ちとりどうの者共、自ら家に火を懸けて、御心を騒がしけるに、其の火の光に驚き、たまたま召連れし人も、妻子の事思ひ軽ぜけんか、其為めに、忍びくに落ち行きぬ。稍ありて、勝頼、誰れかあると宣へども、頓には御返事もなす者心なし。重ねて如何にと宜へば、土屋某、候と申す。誰彼はと尋ねさ給へば、誰は何時の頃より見えず、之は加持より見えずと申しければ、何れも御心細くや思召す。既にその夜も明けければ、「駒飼石見が宿」へ出でさせ給ふ。痛はしやな。女房達、昨日は馬に乗りしをさへ、世に憂き事と思はれしが、其馬人も、落行きぬれば、徒歩や裸足で歩みける。御䑓所御覧じて、げに哀にぞ思召す。御供の人も、猶僅かなれば、御心細くや思召しける、路次にて斯くこそはべり給ひけれ。   *        ゆくさき心頼みぞ薄きいとどしく 心よは身がやどりきくから と遊ばし、弥生四日には、「駒飼石見が宿」へ着き給ふ。小山田、心変わりに思ひけるやうは、能き時刻もなし。母諸共に、都留の村へ行かばやと思ひし所に、敵見えけると、申し来りければ、六日の暮方に、土屋を奏者と致し、是に御入り政事、覚悟の外にて候なり。彼の都留の郡岩殿山へ御越し、然るべきなりと、御申し頼み奉り候。また付いては、自ら母の御暇の事、能き様に頼み入るなり、尤の仰せならば、御先へ罷越し、御臺所の御座の間をもしつらひ、御題に參るべしと申しければ、その由、土屋申上げられけるに、聞召し、いやいやと思召しけれども、彼の者の心を損ねじと思召し、兎も角もと仰せければ、母諸共に、七日の夜半に紛れ行きて、御迎えに參るかと、待ちさせ給へど、其の儘見えざりければ、此方より御迎えを越され給ふ所に、笹子の峠に、数多の武士陣取って、防ぎ都留の郡へ入れざりければ、御使罷帰り、此由申上ぐる。勝頼聞召し、彼の者に誑られし事の口借しさよと、天に上り地に沈み、御腹立たせ給へど叶はず。小山田心変わりの由を傳へ聞き、御陣、俄に驚き立ち、あたりの家に火を懸くれば、あるにあられぬ有様、目も当てられぬ気色なり。げに了簡のなき余りに、天目山へ御越しなされ、一待石たばやと思召し、既に駒飼を出でさせ給ふ。小屋中の者共等、此方へ御越しなされん事、思も寄らずとて数多の兵、轡を揃へ防ぎ奉れば、此処彼処に立たせ給ひて、籠の中の鳥とかや。網代の中の魚とかや。洩れて行かせ給はん方ぞなき。爰に僅かなる田野と申す所に、御馬を寄せ給ひて、息らひ給へば、御臺所の仰せける様は、斯かる野原の有様、思も寄らずや。斯くあるべしと知るならば、韮崎にて、如何にもなるべき身の、此迄来りて、屍の上の口借しさよと、御涙を流し仰せければ、勝頼聞召し、自らもさこそ思ひつれども、彼の者に謀られと申すとも、御身痛はしきと、思ひ參らせし故なり。事は如何にと申すに、彼の都留の郡と申すは、相模近き所なれば、如何なる風の便にも、御身、故郷相模へ送り參らせ、我が身如何にもならむと思ひし故なりと宣へば、御臺所聞召し、此は如何なる仰ぞや。譬へば、人許し輿車にて、故郷相模へ送るとも、帰らん事思も寄らずや。一つ蓮の毫の縁と、思ひ染めたる紫の雲の上まで、変らじと契を結ぶ玉の緒の、有らん限は、本よりも絶えての後も別れめやと宣へば、勝頼聞召し、いしうも仰せけるものかな。御身の御心、またきより斯くこそ見奉れとて、只此在所、見苦しとの仰なるや。或る文に曰く、三界無安唯如火宅、又十方空と観ずれば、河底をあると定むべき。只妄想の戯なりと宣へば、御第所聞召し、誠に左様にて侍ると宣ひて、斯くこそ詠じ給ひけれ。*        野辺の露くさばのほかにきえてのち たいあらはこそたき所入 * もんちんじ宣へば、勝頼聞召し、悦びては嘆き、嘆きては悦び、宣ふ所へ人来り、敵ははや、善光寺邊迄参りたると申しければ、最後の御盃と申しければ、奉りしに、御第所取上げ給ひて、勝頼にさし給ふ。又御臺所へさし御来所の御盃を、御子信勝へさし給ふ。信勝の御盃、土屋に下さる大夫より後は、心々の思ひざし、しゆも半の事なるに、土屋は顔近つけ、酌たてなほし申すやう、斯く野原の御有様見奉れば、心も乱れ気も消えて、眼も暗む計りなり。斯くならせ給ふは、如何にと申すに、御内の人々の心変わりの上なれば、さこそは此方をも、御心や置かせ給ふらんと、朝夕気遣ひ致すなり。さもあらざりし印を、御目に懸けんとて、五つになりし若に向つて、いひけるは、汝は幼少なれば、人の道には歩み難し。御先へ罷越し、六道の街にて、君待ち奉れ。父も御供申すべき。西へ向つて手を合せ、念佛申せといひければ、父が子にてある間、承ると申して、楓の様なる手を合せ、念彿三遍申しければ、腰の刀を引技いて、心もとに押當て、かしこへがばと投げ捨つる。勝頼、此由御覧じて、あまりあへなき事を、致しけるものや。最後の言葉をも懸けやうずるものをと宣ひて、御涙を流しのたまへば、御前なる人々まで、皆小手の鎖をぬらしける。御臺所、このよしを聞召し、何に土屋が若を害しつるか、哀れなると宣ひて、御衣の袂を顔に当て當て給ひて、しばしば起きも上り給はず。やゝありて、御臺所仰せける、かんろの母の心の内の不憫さよと宣ひて、若が事を遊ばし、母の方へおくり給ふ。 *        残りなく散るべき春のくれなれば梢の花のさきだつはうき と侍りて、坦らせ給へば、女房辨なくて居たりしが、御詠歌の出を承り、少し心を立直し、三度戴き、浜の隙々に見て、恐れながらも御返し中さんとて、斯くこそ詠じ參らせけり。 * かひあらじつぼめる花はさきだちて空しき枝のはは残るとも 其のち、土屋、女房に向ひていひけるは、若が妹二歳になりしをぞ、汝に取らするなり。何方へも連れ行き、若しながらへてあるならば、足にもなして、父母が遺児とも、見るべしといひければ、女房聞いて、うたての人のいひ事や。彼の若に離れ、御身に捨てられ、又世に存命へんとは思はず。同じ道にと思ふなりと、掻き口説き恨みければ、土屋、重ねていふ様は、女の分けなきとぱ、此とかや。あのみどり子を養育し、父兄が草の蔭を訪はせんは、いくばくの忠たるべきといひけれども、更に了承せざりければ、土屋、頼もしき被官を近づけ、いひける様は、彼の女親子連れて、何處へも忍び置き、尼にもなして、自らが草の蔭を訪はせよと、いひければ、彼の男申すやう、此は口惜しき仰かな。何方へも行きては、何時の用に立つべきぞ。思いも寄らずといひければ、自ら馬に鞍を置き、女房を抱き寄せて、押へて男に水口取らせ、馬の三頭に鞭をあてて、十町計り追出してぞ帰りける。  其後御臺所、御最後も近つきぬれば、御心細くや思召しける。ふるさと相模へ斯くならせ給ふ言の葉を、如何なる雁の使にも、言傳てばやと思召して、斯くこそ詠じ給ひける。 *        帰る雁頼むぞかくの言の葉をもちて相模のこふにおとせよ また如何にもならせ給はん後、御兄弟の御歎かせ給はん事を思召して、  *        ねにたてゝさぞなをしまむ散るはなの色をつらぬる枝の鶯 と侍りければ、御前なりし女房達、御最後の御供申さんとて、斯くこそ侍りけれ。*        咲く時は数にもいらぬ花なれど故るにはもれぬ春の暮かな 斯くて敵、間近く来りたる由申しければ、法華経五の巻、奉れと召されて、御心静かに遊ばし給ふ。既に御経も過ぎければ、勝頼、土屋を召され、御臺所の御最後の御介錯と仰せければ、承ると申して、お前に出てけれども、初めて見奉るに、御年の頃、二十歳の内と見えさせ給ひて、色々の装束召され、容顔美麗の有様は、昔の楊貴妃・衣通姫・吉祥天女と申すとも、斯程艶めいたる形はましまさじ。何処へ剣を立て參らせんと、呆れ果てゝ居たりしに、御自ら御守刀を抜かせ給ひ、御口に含ませ給ひて、俯きに伏し給ふ。勝頼、此由御覧じて、急ぎ立寄り、御介錯を奉り、御死骸に抱付き、暫しはものを言わず。土屋兄弟三人は、御供の女房達の介錯、取りどりに致しける。さんの乱したる有様にて、たとゑん方はなけれども、晋平治元年三月十五日に、待賢門の戦の時、平家は十八萬騎、源氏は凡そ三百余騎に、討ちなされさせ給ひし時、御子千寿の前、竹の小御所を忍び出で、父義則の御前にて、仰せける様は、両家を見奉るに、平家は出づる日、咲く花なり。源氏はいづる日散る花なり。義朝如何にもならせ給はん後、如河なる田者の手に、懸らんも口惜しや。義朝御手にかゝり、助からばやと思ひ、最後の装束たて參りたりと、仰せければ、義朝聞召し、いしうも申しける子寿かな。自らもさこそ思ひつれどもとて御涙を流し仰せける。ややありて、義朝の乳人の鎌田はいずくにぞ、政清参れと召されつつ南表の左近の桜の基に敷き皮を敷き、千寿の前御移し奉り、おふせけるやうは、我が子なれどもいつくしき物や。畏れながらも、満月の山の端いづる、その影もこれにはいかでまさるべき。たけなる翡翠の簪巻揚たもふ。義朝さしよりたまひて、仰せけるは、汝いかなる因果に、義朝が子となりて、かかる憂き目お見するなり。今度には、いかなる賤男、賤女か、胎内にも宿り、百余年齢をたもてと、のたまひて、電光のうちに、剣おふらせたもふとみえしかば、花のやうなる千寿の御くび、「吾」前にぞ落ちたりける。義朝御首に抱き付き、しばし消え入りたもふとなり。 又元暦元年二月七日、一の谷のおちあし、おなじき十八日に、讃岐の屋島のおちあしに、いかばかりの人うせさせたもふと、申せども、これにはいかで優るべき。やうやう勝頼御死骸にはかれたまい、の賜うふやう、いかに土屋、自ら最後おも、おなじ時刻と思へども、敵将合わんと思ふなり。自から太刀おふる事は、家に叛ける事なれど、所存の余り、これなれは、苦しからじと思ふなりと、仰せければ、土屋承り、仰せ、誠に御ことわなりとて、申しける。又御子信勝に向わせ給いて、自らは、一栄一落、これ春秋たるが、汝無惨なれ、いまだ齢たらざれば、武田の家にも直らずして、たたかくなることは、いまだ蕾める花の、春にもあはずして、嵐に揉まれ、落つがごとし。無念なりとのたまへは、信勝きこしめし、にっこと笑わせ賜いて、いやこれは苦しからす、ここに例への候なり。しうじうのせんねん、ついに朽ちぬ。槿花の一日は、おのづから栄おなす。疾も遅くも残らめや、とのたまひて、かくこそ詠じたまひけれ。  まだきちる花とおしむなおそくともついにあらしのはるのゆふぐれ とあそばしければ、勝頼きこしめし感じたまひ、おとなしや、いかなる心さまかなと、おほしめしいりたまいて、深き御涙に咽びたまひて、御返事の弁えずして、おわします所え、敵来たりければ、いづれもうち物ぬきもちて出でたまひ、散散に戦いたもふ。 土屋兄弟三人も、同じく戦いければ、先へと進むつは物お、悉く滅したまえば、あとなる勢はこれを見て、つつゑていたりければ、よき時刻ぞと思し召し、いかに土屋、敷皮おなおせ、御腹召さるべしと仰せければ、承ると申して、御敷皮奉り、御介錯参る。なおらせたまゑて、御世辞とおぼしくて、かくこそ詠じたまひけれ。   おけろなる月もほのかにくもかすみはれてゆくゑのにしの山のは あそばしければ、土屋とりあへず、かくこそ申し参らせけれ。   おもかけのみおしはなれぬ月なればいづるもいるもおなじ山のは そののち毎自作是念、以何分衆生、得人無上道、即成就仏心と、この文の唱えさせたまいて、御年三十七と申すには、田野の草葉の露ときえさせたもふ。土屋御死骸に抱きつき、やがて御とも申べしとて、深く涙にしづみける。また信勝の御介錯に、弟の土屋参る。これもなほらせたまひて、御世辞と覚しくて、かくこそえいじたまいける。 あたに見よたれもあらしのさくら花さきちるはとははるのよのゆめ弟の土屋、承り、とりあへずかくこそ詠じ参らせける。 ゆめとみるほどもおくれて世の中にあらしのさくらちりはのこらし とぞ申ける。 なお竹の林の花のみな散れは世は鴬のねおぞなきつる紫の雲に月かけ入りしより心はやみの夜にぞまよゑるあはれなり有明ならて浮雲のかかれはともにいさよいの月水底の心は清きかわ竹の世に濁りある事そかなしき誰ゆきてとはぬ御はかの秋風に恨みやふかき田野の葛原  ふりぬ共わきてやとはんあとたへし田野の山辺のこけのした道  罪もみなあるとわなにおいとはましよくよく見れはくうの海原 此名号うたのはじめに、竹のはやしとは、武田の御親子さまの御事、花とは常の事、ちるとは暮れさせたもふ事、みなとは御一門の事なり。五文宇になお竹のとは、人々多く死すと、申せども、おふやさまなけ御痛はしとゆふ事なり。下の句のかみに、世は鴬とゆふ事は、それにつけても、世の申憂とゆふ事なり。叉たけの節なるべし、いづれも歌の真品々あるべし。 其後滝川、勝頼さまの御くびおもちて、信長の前にきたりければ、御首にむかひたまひて、いろいろの事申されければ、御気にあわずとや思召す。面悪阻向け、御後ろへ向かせたもふ。信長、城の介どの、此よしお見奉り、仰せけるやうは、御道理にて候なり、弓取の習にて人おかくし、久我かくならんもしれぬなり。御晴させたまへ。そのじやうには、今度心がかりいたしける人々お、皆失しなはんと申されければ、御前に向かせたもふ。信長、城の助どのと仰せけるやうは、むかし頼朝、義経、御不介に上り、奥州の秀平お頼み、高館と申所に、御所おだて御いり候所へ、鎌倉よりもおしかけ御申ありしとき、頼朝への御うらみおかきたまひいて、その文お口のうちに納め、御腹めされぬ。御乳人の兼房、みづから腹をさき、御首おをしいれ、御家形に火をかけ、死したりさいに、焰鎮まりければ、鎌倉の人々乱れ入り、やけたる首のうちにて、義経の御首お見付け奉り、孝養申さんと、畠山殿見給へば、御くちの内より彼の文をおふき出したまふとなり。それより後は、これにてましますなりとて、お入り参らせ、七段に段を築、七重に注連おはへ、其の内に納め給ふ。 その後約束の如く、御心かわり申ける人々、悉く絶されける。また尾張よりむかいたてまつりし人々も、信長、城の肋をはじめとし、七十五日の内に、みなみな絶られければ、武事東都へかくれなくして申すやう、唐土の虎は毛お惜しみ、日本の弓とりは、名お惜しむと申すたとへの候が、この武田どのは、御合かわらせたまひて、天下に御名お披露目、御代に楊させたもふ物かなと、申さぬ人ぞなかりける。 又このよのあらましとりあつめし物は、柏尾にて、一夜御宿参らせしものなり。世を観じ見るに、人間五十年、流転の内お例ふれば、電光、朝露、石の火、夢幻の如くなるに、世の営にうち迷い、末の闇路おいかがせん。ま事の道にいらばやと思い、その比貴き人、慶紹と申せしの御弟子となり、元結きり、墨染のころもに身おなして、室の扇の明暮に、念仏申経よみ、心意お清して、その暁おまつところに、武田の御一門、落人とならせたまひて来たり、コ僕の御やどとおふせければ、たてまつりしに、其まま世に出させたまわず、ついにはかなくならせたまへば、御いたわしき事かぎりなし。いとせめて御名ばかりおも、留まいらせ、草葉の露のきゑぬまの、忘形見にも、見事らはやと、おもひてかく記置まいらせけるとかや。さきの名号歌よみて、たてまつりしものの尼なり。  甲州柏尾山の理慶比丘尼けいしゆ庵これおあつむ

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