2021/03/21(日)17:17
江島・生島と三 宅島(2)
江島・生島と三 宅島(2)
『三宅島百話』池田信道氏著 島の新聞社刊 昭和48年刊 一部加筆 山梨県歴史文学館 生島新五郎については次のような三説が流布されている。 一、三宅島に流罪となり、そこで二十年後に死亡二、在島二十年、赦されて江戸に帰り、その翌年死亡三、死罪 以上三説のうち第二、第三については何等の根拠も持たないもたない空事である。したがって第一がその真相であり、その証左となるべきものが三宅島にいくつか残されている。 かつて私は、伊ケ谷部落にある浄土宗大林寺の管理者であったが、この寺の過去帳に次のような一文がのっていたことを記憶している。 道栄信士 生島新五郎 享保十八年二月二十六日歿 この道栄信士という法名は二字戒名と称するもので、流人以外には余り授与されていない特殊な浄土宗の法名である。寺院に備えてある物故者を記録する過去帳本来の趣旨からして、直接関係のない死者をとりあげて記録するようなことは、先ずあり得ないことである。もし第第三の説に固執するむきがあれば更にいう、百八十キロメートル離れた江戸で死亡、もしくは死罪に処せられた罪人が、なにゆえに三宅島の大林寺過去帳に記録されなければならないのか、理解に苦るしむ次第である。更に伊ケ谷笹本平兵衛宅(元地役人)の仏壇に安置されている笹本家の過去帳に、教普選栄信士と書かれた生島新五郎の法名がまつられ、歴代の当主が供養を捧げている。この法名は国字戒名と称するもので、一般普通人のものであるが、大林寺の戒名と笹本家の戒名の、異なる点についてはほぼ理解がつく、つまり生島新五郎は、いかに名優の誉がたかい役者であったにせよ、河原者であると同時に流刑囚である。享保の改革に於いては、役者は最低の人間であるとされ、外を歩くときは、必ず深あみ笠をかぶることを義務ずけられていた。寺院側にしてもこれらを考慮に入れて措置するのは当然である。生島新五郎を葬るにあたり、上をはばかって措置されたことは明白であり、後日、普通人の戒名にあらためたものであることが推察される。しかも権力ある寺社奉行の管轄下にある寺院の過去帳では、あくまで上をはばかって御法どおりの流刑囚としてあつかい、地役人と流刑囚の垣をこえて、人間的な親交をむすんだ笹本家の過去帳には、普通人としての取扱いをさせてある。当時笹本家は、平兵衛が当主でしかも地役人であった。この頃までは三宅島の地役人には神主が任命されていたが、時代の変遷とともに神事の意義が薄れ、それにしたがって神職関係者の地位が低下して来た。このときにあたり、幕府は各島々の生産をたかめ、年貢の増収を図る考えから生産をさまたげる古いしきたりなどは進んで排除すべき態度に出たのである。つまり島の開発や島政上の改革を目的に、マンネリ化した従来の地役人は退役させられ、伊ケ谷村の名主笹本平兵衛が選ばれて地役人に就任したのである。 先にも述べたが、地役人は権力的には島で最高位に君臨した存在であり、自からのなすことは意のまゝであった。例えば神着に存在した浄土宗妙楽寺や、御蔵島に存在した万蔵寺をとりつぶしたのは、地役人の権力によるものであった。それはさておき、笹本地役人と流刑囚生島新五郎の間には、役人と罪人という垣はなく、心のふれあう人間同志の交友があった。新五郎の歿後にも特別の扱いをして、その遺体も自家の墓地の傍に葬り、過去帳にまでその法名を載せて回向を手向けていたのである。 後本家は海岸にあり、障子か二枚あければ目のあたりに伊豆の連山が眺められる、そして富士の霊峰も指呼の間にのぞめる。これを眺めて物想いにふける新五郎のなだめ役になるのは、いつも笹本地役人の役目であった。心ある古人は、「水の流れと人の身は」と無常態をうたい、人の世の儚さを示唆しているが、ともに全盛を誇っていた絵島と生島に、こんな悲しい別離の日が訪れることを、果して誰が予想したであろう。地役人の庇護をうけたとはいえ、つのみ想いを胸に秘めて、十九年もの長い年月を潮騒と共に暮した新五郎にもようやく老いが目立ちはじめ、享保十八年(一七三三)二月二十六日の日暮れどき六十三才の生涯を終ったのである。絵鳥の死に先き立つこと八年前である。 私はこの一件について、機会あるごとに調査研究を続けているが、知れば知るほどに時の為政者の愚劣さに、精一杯の憤りを覚えてならない。 許されないまゝに今もなお、二人の骸は北と南に遠く離れて眠っているが、島人の中には悲恋の二人に心から香華を捧げ、一片の沼をそゝぐ者がいる。二人の魂はあい隔つとも、以て冥すべきであろう。 昭和四十三年、高遠町に絵島生島の比翼塚が完成し、私は生島の墓土を持って、この除幕式に参列して二人の霊を慰さめ、更に帰路には、絵島の墓土を持ち帰って、生島の墓地に理めた。遠く離れて二百五十年、彼等はいま漸く天下晴れて階老同穴の契りを結ぶことができたのである。彼等のよろこびはいかばかりか、考えただけでも胸のあつくなる想いがする。いかかる善智識の供養を施すよりも、最高の善根を施したことに私は満足し、いまほのぼのとした心のやすらぎを覚えているのである 絵島事件の主な人々は次のように記録されている。 三宅島 生島新五郎 柄鼠善六 御蔵島 奥山交竹院(大奥医師)八島 山村長太夫 神津島 中村清五郎 また絵島、生島の流罪判決書は、次のようなものである。 流罪 三宅島 長太夫 抱役者 生島新五郎 四十四才 中渡之覚 新五郎事、先年御城女中の事について世上において申沙汰し候事有之者に候、然るに元年以来より度々に及び絵島と参合せしめ候条々その罪科重畳し候を以て流刑に行ふ者也 永遠流 絵島 三十三才 於評定所 仙石丹波守 坪内態度守 稲生次郎左衛門 中渡侯 絵島事、段々御取立にて重き御奉公をも相動多くの女中の上に立おかれ候身にて内々にて其行い正しからずお使いに出候おりおり又は宿下りの度々人の貴賤を構わず不宜者共に逢近ずきなしたる由、ゆかりもなき家々に泊りあかし中にも狂言座の者共と手ごろ馴れしたしみ其身の行い如既成のみならず傍輩の女中をすゝめ遊びき歩き候、といえどもなおも御慈悲をもって命をばたすけ永く遠流に行はれ候者也。 生島訴五郎は在島中、その切ない胸の内を江戸の親友二代目市川団十郎に送っている。 「初鰹、辛子がなくて涙かな」 この句を受けとった団十郎は早遠なぐさめの返事な送り返している。 「その辛子、きいて涙の鰹かな」。 生者必滅会者定離とは、人の世のかなしきさだめを論した仏陀の教えである。生あるものは必ず滅し、会うものはいつか別れなければならない宿命を背負っているのが人生である。数奇な運命を辿って逝った絵島生島の物語りは、今後も幾久しく語りつがれてゆくであろう。 人は死に直面すれば、いかなる名誉も財産もすべてを捨てゝ行かねばならない。後に残るものは一握りの骨と生前に積んだ徳だけである。 絵島事件は江戸滅大奥の荒廃と、大奥を舞台とする利権の暗躍に対し、時の幕府が打ちならした警鐘であったが、大奥粛清という大きな浪に巻き込まれて、避遠の地に恨みを残した者の中に、奥山女竹院がいる。 奥山女竹院 御蔵島は江戸時代の当初から、三宅島の端島として、政治取締りなど、その支配下にあったが、これにあたる三宅島地役人は、御蔵島に対して横暴な振舞いが多いため、三宅島との分離を願うのが御蔵島々民の宿願であった。圧政にたえかねた御蔵島では、度々幕府に対して三宅島からの政治的独立を請願したが入れられなかった。 正徳四年(一七一四)、絵島一件に連坐して、御蔵島に送られた交竹院は、島民の不満を見るにしのびず、流刑の我が身を忘れて、大奥の侍医桂川甫筑を介して、その実情を代官斎藤喜六郎に訴え続けたが、これが取りあげられ、享保十年(一七二五)御蔵島は三宅島島方取締役の圧政から解放され、独立に成功したのである。然し女竹院は残念にも、御蔵島、が永年の宿願を果したよろこびの姿を見ずに、享保四年八月二十二日(流刑より五年後)忽然として配流地の土と化したのである。 享保十年、御蔵島々民は独立の恩人として、奥山女竹院、桂川甫筑、加藤蔵人(御蔵島神主兼地役人)の徳を讃えて神社の境内にその像を安置し、これを三宝神社として祀った。 女竹院の事跡に関し、御蔵島にいまも残る記録には次のように記されている。 奥山女竹院は幕府の侍医なり、侍女絵島、俳優生島新五郎等の事に坐せられ本島に流刑せらる。そのとき生島は三宅島の所轄にして虐待をうけ非常の困難をきわむ、たまたま神主加藤蔵人等独立を謀るに際し、女竹院これを賛助し待医桂川甫筑に書を送り、独立の事を幕府に哀願せしに漸くにして、これを許され本島独立することを得たり、島民その大功を記せん、がために三氏を合祭す、いまの三宝神社これなり、交竹院赦しを得ず遂に本島に没す。歿するに臨み遺言して「我れもと江府の産にして幕府に奉仕し図らずも罪を得て遠地に誦せられ故国に帰ることを得ずして骨をここに埋めるは甚だ遺憾とするところなり、願くは我が骨を江府に相対する所に収め魂礁をして永く江府を望ましめよ」と遺して逝く。時に享保四年なり、島民これをあわれみ字かみうどの尾に葬る。 女竹院の本名は奥山高内という。もとは水戸家の武士で、医学伝皆生の時に認められて大奥に出仕し、事件の時には九百石の身分であった。大奥の表使い、言路という女と情を通じていたために粛清の網にかゝり、流刑の憂き身をみたのである。 流人がその配地に残した文化の足跡は稀であるが、奥山交竹院が御蔵島にのこした足跡は偉大であり、この島の続く限り讃えられる文化史の一頁である。松島が配所で使った机(高遠町) (余録) 山形県西村山郡の浄土宗真先寺に生島新五郎が生前に寄進した弥陀三尊来迎仏、が現存している。生島新五郎が奥羽路の一寺院にいかなる理由でこの来迎仏を贈ったものなのかその理由が判然としない。 掲載写真 生島新五郎 厨子 厨子の右側の扉に…施主、武列江戸木挽町 生島新五郎左側の扉に… 三尊願主 弘蓮社船誉願故大徳また中火の阿弥陀如来像の背に赤いウルシで 宝永二乙酉天 願主 弘蓮社船誉願故○○品江戸木挽町五丁目(不明)○○○○四月施主、生島新五郎(不明)また厨子の奥面には奉納阿弥陀如来二菩薩為先祖生霊証得菩提 逆修 念誉題億善尼 心誉林清善尼そしてこの下段に二十七名の法名が記されている。 (註)逆修とは個人が生前に法名をもらい、それを墓碑などに朱書することをいう。 貞光寺現住の佐藤正叡師は生島新五郎が寄進したこの来迎仏についてその理由、いきさつなどの解明を急いでおられるが、正直なところ甚だ困難な仕事といわざるを得ない。 解明に困難な理由1.逆修を受けるくらいの女性であるから相当な智識階級で仏教信者と思おれるがその俗名が不明である。2、逆修の女性、生島新五郎、願故大徳の関係が不明である。3、逆修の女性が帰依していたと思われる願故大徳の正体が不明である。4、厨子の下段に記されている二十七名の法名と二女性 の関係が不明である。これについて佐藤師は、逆修の二女性は山村座に関係する役者の奥方か、もしくは徳川大奥の女中ではないかとの推論をしている。 生島新五郎墓地(伊ケ谷)(註)生島新五郎は寛文十一年(一七六一年)大坂で生まれ、宝永二年(一七〇五年)は三十四才のときであり、絵島事件の起る十年前のことである。 生島新五郎が奥女中との開帳をもったのはずっと後年のことであり、この時点ではまだそれほどの著名人でもなかったので、この場合、大奥の女中は対象外にしてもよさそうな気がする。山村座に関係する役者の奥方云々についても疑問であるが、もしやと思われる節がある。 宝永元年二月、江戸の市村座において市川団十郎、生島新五郎、中川半三郎の共演で「移徒(わたまし)が上演されたが、このとき楽屋で杉山半六、が市川団十郎を刺殺するという事件が起っている。この時に二代目団十郎はまだ十七歳の若年で修笑中の身であった。 初代団十郎は屋号を成田屋といい荒事の創始者であるとともに三升屋兵庫の筆名で脚本も書き、元禄時代の代表的な名優といわれていた。然し高慢な性格と態度が芝居関係者の間では兎角の不評をかっていた。これらのことが禍いして非業の最後を遂げても同情する人もなく修業中の二代目に対しても暖い言葉をかける者もないほどのみじめさであった。逆境に立たされた二代目団十郎を励まし、教育指導して父親に勝る名優に育てあげたのが、生島新五郎である。したがって生島新五郎は二代目団十郎にとって単なる歌舞伎界の先輩ではなく、忘れてはならない大恩人なのである。以来成田屋は江戸歌舞伎界の名家とたたえられ、現在の十一世までのうち二世、四世、五世、七世、九世が特に名優としての誉がたかかった。 生島新五郎が鮫島と灼熱の恋に身をやきくずし、三宅島に送られたのは、それから元年の後であり、このときには、二代目団十郎もすでに二十七歳に生長し、配所で暮す恩師に対し慰さめの手をさしのべた事実は、衆知のとおりである。 厨子の扉に記るされた宝永二年は初代団十郎が非業の死を遂げた一年後、つまり一周忌にあたるのでその菩提と芝居関係の物故者二十七名を弔うために来迎仏を寄進したのではあるまいか。また逆修を受けた二人の女性は初代団十郎の娘か、もしくはこれに近い身内の淮かではないかということも推察されるが、団十郎の妻ではないことは次の事項がその証左となる。 初代団十郎 牢氷元年二月十九日長 四十五歳 法名 門誉入宝栄信士 妻 栄光足 寛延三年十月八日長 法名 精誉栄光樹林洗足また二代目団十郎の妻もその該当者ではない。二代目団十郎 宝歴八年九月二十四日長 七十一歳 法名 法誉柏菰随性信士 妻 さい 安永四年七月四日歿 七十六歳 法名 随誉翠眉栄順法尼 初代夫妻、二代夫妻の遺骸は芝増上寺来の常照院に埋葬されているところを見ると、願故大徳は増上寺もしくは常照院に関係ある僧という感が深くなる。生島新五郎が寄進した来迎仏が増上寺または常照院に存在するなら以上のような関係から納得もできるが、遠く離れた山形県の高光寺にあることは、なんとしても解明のできない今に残る絵鳥追放吟の不浄門い謎であり今後の研究に侍つほかはない。