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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年07月23日
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白州町の歴史の流れ【白州町の考古】 
【白州町の古代】
駒ケ岳を主峰とする西部山地の山麓に広がる白州町。
遺跡はその山麓台地に流れる豊かな渓流の水と日照に恵まれて、集落が発達し、先史時代の縄文前期(およそ七千年前)頃より古代人の居住地となっていた。下教来石の加久保遺跡、鳥原の浦門遺跡、自須の大除遺跡・南田遺跡・陣ケ原遺跡、台ケ原の根古屋遺跡、横手の本村遺跡等につづいて町内各地に縄文中期・後期、さらには平安時代の土器、石器の出土することから、当時多くの古代人が生活していたことは事実である。
昭和五十九年に根古屋を発掘していくつかの住居跡を認めることが出来たのである。
縄文文化は数千年も続いて、その間に徐々に進歩はあったであろうが、狩猟、漁場の採集経済の生活をつづけており、まだ農耕生活は行なわれていなかったといわれる。
【日本全体】
紀元前二、三世紀のころ、大陸文化の影響を受けて新しい文化が北九州の一角に出現し、やがて西日本、近畿地方に進み、東日本に波及して縄文式文化にとってかわって弥生式文化となった。この弥生式文化は弥生式土器を使い、狩猟、漁場のほかに、新しく農業がはじまり、石器のほかに青鋼器、鉄器などの金属器が使用されるようになった。
農耕を行ない金属器を使うことは社会生活に大きな変化をもたらしたのである。土地への定着性をまし、生産にゆとりができるとおのずから貧富の差を生じたのであろう。また整地や灌漑に集落民が共同してあたるようになり、それを計画し指導する人も必要となってきた。こうして集落内部に支配者が生じてきたのであろう。
やがて原始的な小部落国家が生まれ、それがさらに集合体をつくって大きな力となっていった。
弥生時代には皇室を首長とする畿内の大和の勢力がしだいに周囲を征服し、四世紀の中頃までに、北九州から東は関東に至る国上の統一をほぼ完了したのである。そして従来の小国家の首長たちは、国 江理、県主などの地位を与えられ、半ば独立を許されてその地域を支配し、またすぐれた鉄器文化も移入され、壮大な古墳などを築造して、支配者としての威容を誇示するようになった。大和時代を古墳時代と称するのもそのためである。
【白州町の古代・古墳時代】
白州町内では鳥原の柏木古墳が遺跡として伝えられているが、すでに消滅しているため詳しいことはわかっていない。しかしこの時代に集落が形成されていたことは、その時代に属する土器などから、その可能性が十分考えられる。
なお昭和五十九年度から実施された台ケ原根古屋地区の圃場整備事業のため行った発掘調査によって、縄文期の住居址や土器・石器などが多数発見された。
【奈良時代】
六四五年、中央集権、公地公民の名のもとに決行された大化の改新を経て、律令国家への道は進み、大宝律令の完成および元明天皇の平城遷都を以って奈良時代が始まる。
律令国家の基礎は農民であり、班田収授制にもとづいて一定の口分田が与えられた。しかし同時に租。庸・調や兵役、仕丁などの重い負担が課せられた。
日本に仏教が伝来した六世紀中頃以降、飛鳥・白鳳・天平の時代はまた仏教により鎮護国家を願った時代でもあった。
【平安時代の甲斐の国・北巨摩郡】
平安時代の甲斐の国には、穂坂、柏前、真衣の三御牧が置かれていた。元来甲斐国は良馬の産地として有名であった。この甲斐国に牧監が置かれる八二七年以後、馬および牧に関する記録が急増し、特に駒牽の名が頻繁に登場する。牧監とは牧の役人の長であり、駒牽とは朝廷で、諸国の牧から貢進するために引かれてきた馬を叡覧する儀式のことである。
天平三年(七三一)には国守田辺史広足が、身体が黒く、たてがみと尾が白い甲斐の黒駒を神馬として献上し、それが大瑞にかなったので朝廷は大赦までしたと記録されている。
【甲斐の古代・巨摩郡】
古代甲斐国には、山梨、八代、巨摩、都留の四郡が置かれて、このうち巨摩郡の中で現在の北巨摩に関係する郷として、速見、真衣、余戸の三郷の名がみえている。これらの正確な位置はわからないが、速見は今の須玉・高根・大泉・長坂など八ケ岳南麓の一帯、真衣は武川から白州を含む一帯、余戸は韮崎市の一部というように、それぞれ比定されている。
【平安時代・真衣郷と真衣野牧・甲斐源氏発祥】
平安時代になると稲作や畑作の発達とともに、牧の整備等がかかわり合って集落の増加発展がなされてきた。真衣野牧については正確な位置は不明であるが、現在の武川村牧の原付近にする説が有力である。すなわち釜無川右岸の武川村から白州町を含む一帯が、真衣野牧に比定される。真衣郷は真衣野牧とほぼ同じと考えられる。
毎年真衣野、柏前を合わせて三〇頭の貢馬をひいて上京した駒牽の行事も十二世紀のはじめ頃からすたれてきた。すたれたその理由はいろいろ考えられるが、在地勢力の御牧の私牧化もその一因であった。三牧地方が新興甲斐源氏の根拠地であったばかりでなく、あたかも甲斐源氏が勃興する時に当っていた。
【白州町の古代遺跡・交通路】
自州町の遺跡は縄文時代のものが最も多く、それに続いて平安時代および中世のものがかなり多く存在している。平安時代のものとして、鳥原の南沢、白須の大除・中村・陣ケ原・横手の本村、花水の押野などからこの時代の上器が非常に多く採集されている。また各遺跡からは、岐阜方面で製作された灰釉陶器が多く出土していることから、当時の交通路が、伊那地方を経て岐阜方面に通ずる道が重要なものであったと考えられる。同時に自州の地が西と東を結ぶ交通の要所であり、牧や農耕の発達と共に集落も増加していったことであろう。
また横手、自須から上教来石地区にかけて、現在の国道二〇号線が走る地域より一段高い台地上に多くの遺跡が並ぶ傾向が認められることは、この時代の交通路が、それ等の集落を結ぶもので、もっと西部の山麓地帯を通っていたことは事実である。
往古は西郡路に続く武川路、信州路が長い間重要な交通路となっていた。釜無川などのはんらんのため、盆地の西の山麓を鰍沢から北上したもので、韮崎の旭町、神山、清哲、円野を経て、武川村の黒沢、山高、柳沢を通り、自州町に入って横手、白須、教来石、等を過ぎ信州へ続いたのである。
中世に入り甲斐の国は甲斐源氏の活動が中心となって進展する。甲斐源氏はいうまでもなく清和源氏の流れで、新羅三郎義光から出て、平安末期から発展し、鎌倉、室町両時代を通じて栄え、さらに戦国時代に至って武田三代の繁栄となったのである。
【白州町と武田時代】
武田時代に本町の歴史と関係深いことは、この地に繁栄した武川衆である。武田五郎信光の末男六郎信長は忠頼の家を継いで一条氏となり、其の孫時信に男子十数人あって、その各々を武川筋の村里にその地名を氏号として居住させた。その子孫が繁栄して武川衆といわれるようになった。そして武川筋の土豪として勢力をもっていた。
【馬場美濃守信房】
教来石から後に自須に移った馬場氏は智勇抜群の将であり、白須に居宅を構えた豪族の白須氏、横手に住居をもった勇武の横手氏、花水に宅址があって武田の忠臣であった曲渕氏等、戦乱の時代に勇名をとどろかした武川衆の本拠地が自州町である。
【白州町の中世】
中世には甲州一円に峰火台、物見台、砦などを含めて通信網が敷設された。鳥原の峰火台、中山の砦など、今でもその塁跡が残されている。
【白州町の南北朝時代・宗良親王】
南北朝時代の甲斐の政情は、南北に別れての行動があったので不安定であったが、主力は足利尊氏と行動をともにしたことにより、この動乱期を切り抜けることができた。
延元二年、宗良親王は東国に下り、南朝方の中心となって活動する。
興国六年(一三四五)ころには駿河国にあったが、ここを去り、富士の東麓をめぐり信濃に向う途中、自須の松原で、
かりそめのゆきかひ路とは聞きしかどいさや白須のまつ人もなし
と詠み、南朝のため待つ人もない甲斐路の旅に、親王の心も沈みがちであったことが記録に残されている。
【白州町の徳川時代】
繁栄を誇った武田家の滅亡によって世は徳川時代へと町の近世 移行していった。そして徳川幕府の二百数十年にわたる江戸時代となったのである。
江戸時代に入り慶長年間、京都の角倉了以の改修工事によって富士川水運が開けたことと、平地の水害のおそれが少なくなったことなどによって、塩や乾魚など太平洋側の生活物資を船で鰍沢に運び、そこから馬の背によって剤沢、小笠原などのいわゆる駿信往還を北上し、韮崎を通り、台ケ原、教来石を通り信州に入り、茅野を経て杖突峠を越えて高遠に出て塩尻に至っている。塩尻で日本海方面からの交通路と結ばれて、物資の交流がなされたのである。
【江戸時代の白州町と甲州街道】
甲州街道は江戸日本橋を起点とする五街道の一つで、行程四二里余重畳する山々を縫い、多くの河川を渡って、甲州を東西に横断しやがて信州下諏訪で中山道と合する。この間、宿駅は四五を数える。甲州街道が幕府直轄の官道に編入された時期は明らかでない。寛永十五年には各宿駅に人足二五人、馬二五匹を備えることが継立ての義務として負わされた。また臨時の繁忙に備えて助郷制が定められた。
台ケ原宿、教来石宿は甲州街道の宿場町として栄えたが、明治三十六年中央線開通とともにその様相を変えてきた。
 享保九年、藩主柳沢吉里が甲府から大和へ転封後、甲斐は一円天領化されて甲府勤番と一部代官の支配下になった。この直轄化は、いわゆる享保の改革の幕府強化策でおこなわれたものである。この勤番支配は勤番士として甲州街道をくだる旗本たちにとっては、体のよい配流であったともいわれる。したがって施政には少しの哀憐の情もなく、民を視ること動物の如く、膏血を絞るに吸々としていたようである。
しかしその反面、江戸との交流が多くなったことから、ともすれば孤立しがちな甲州に江戸文化の移入したことも事実であった。
【明治から大正・昭和へ 】
【白州町 明治時代】
慶応三年徳川幕府が大政を奉還して、三〇〇年に近かった江戸時代を終って王政復古の世となった。長かった鎖国政策も終りを告げて、西洋の新しい文明が入ってきて、政治的にも社会的にも大きな変革をもたらした時代である。
明治四年には甲斐の国は山梨県と改められた。それまで鎮撫府、甲斐府、甲府県など支配機構がめまぐるしく変わるなかで、人々の生活にも大きな変化がなされていった。この頃学問に対する関心が高まり、鳳来に二宮氏塾など六ケ所、駒城に官川氏塾など四ケ所、菅原に親仁会や郷学「博文館」などの私塾や講習所が開設されて、学問に志ざす風潮が高まっていった。また新しく戸籍がつくられ、太陽暦の採用、国民皆兵主義の徴兵令の発布、日野春警察署台ケ原屯所の設置、台ケ原郵便局の開局など、国民生活に影響の多い施策が次々と実施されていった。
明治五年には学制が頒布され、国民教育の基本が確立されることになった。それに基づいて鳳来、菅原、駒城のそれぞれの地区に学校が開設された。この頃また名主、長百姓の制度から区長制に変わり、加えて町村の合併がすすめられ鳳来村、菅原村、駒城村が誕生したのである。
明治十一年頃になると、郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則など地方自治制度の基礎がつくられていった。
明治十三年六月二十二日は、明治天皇が御巡幸になり、北原延世宅を行在所とされ、翌二十三日は教来石河西九郎須宅に御小休し長野方面に進まれた。
日清、日露の二つの戦争は、ある意味では日本の国を世界の舞台に立たせた一つの機会であったともいえる。そしてそれが、政治的にも経済的にも、我が国が世界的に進展する機会であったともいえる。
このころ市町村制が施行され、小学校令が改正されて義務教育制が実施となり、また中央線が韮崎駅まで開通されたり、台ケ原郵便局で小包便と電報の取扱いなど社会的な制度が整ってくるのに対して、
明治三十一年、三十九年に豪雨が襲来して大きな被害を出し、赤痢病が流行して死者多数といった悪条件にも遭過した時代であった。そして大水害救済のため山梨県に御料林二八万八〇〇〇町歩が下賜され、恩賜林として県財政に大きな効果をもたらした。
明治四十四年には中央線が新宿―名古屋間が全線開通して、交通上大きな変革がなされた。
明治四十五年七月明治天皇が崩御され、年号が大正と改元された。
【白州町・大正時代】
大正三年、第一次世界大戦がはじまり日本も日英同盟のよしみから連合国側に立って参戦した。五ケ年に及んだ戦争も連合国側の勝利となって終結した。この間、日本は軍需景気で経済が活況を呈したが、終戦後間もなく大きな不況に見舞われ、それが昭和の初期の経済恐慌へと連なっていった。
こんな時代に、横手、鳳来、大武川、菅原に次々と養蚕組合が設立され、購買組合が組織化されていった。
大正七年には甲府などに米騒動が起き、またこのころから全国的に農民運動や労働争議が盛んとなり、方々に農民組合が結成された。この年、台ケ原―韮崎間に乗合自動車が開通して交通の便は一段と増してきた。
大正十二年、関東大震災に襲われ、東京、横浜を中心として大災害となった。
大正十四年には普通選挙法が成立し、二十五才以上の男子の選挙権が確立して、財産に関係なく選挙権が与えられるようになった。
大正十五年十二月大正天皇崩御、裕仁親王即位、昭和となる。
【白州町・昭和時代】
新しい時代に入ったものの欧米諸国の不況は我が国にも及んで経済恐慌の時代に入っていった。米一俵五円八〇銭、繭一貫匁二円九〇銭と大正末期の三分の一ぐらいの値段に下落して農村は不況のどん底にあえいだ。
この時代に少年団活動が盛んになり、早起会、夜学、神社の清掃、幻灯会、天神講などが行われ、 また青年団活動(補習学校、 講習会、柔道、 剣道、討論会など)も盛んに行われた。
昭和十二年、日中戦争が勃発して戦時体制が強化され、国家総動員法公布、大政翼賛会の発足など、順次に太平洋戦争に向けて国家の統制体制が強化されていった。
昭和二十年八月十五日は、第二次世界大戦の敗戦を迎えた。地方は罹災者や疎開者によって人口が増大した反面、農業労働力の低下や物資の極度の不足などの要因によって食糧の危機に直面した時代であった。
しかし敗戦を契機として、次々と新しい政策が打ち出され、政治的にも経済的にも大きな改革が行われていった。二十歳以上の婦人の参政権、農地改革の実施、日本国憲法の施行、学校教育法の施行による六・三制の実施、地方自治法施行等、過去の制度に比べて抜本的な転換ともいうべき施策が次々と実施されていった。急速な民主主義への歩みでもあった。
昭和二十三年には峡北農業高等学校の定時制菅原分校が設置され、
昭和二十四年には鳳来郵便局が開局された。
昭和三十年七月一日、鳳来村、菅原村、駒城村の横手・大坊、および長坂町より分村した花水とが合併して白州町が誕生した。





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最終更新日  2021年07月23日 06時08分05秒
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