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2021年07月31日
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カテゴリ:富士山資料室

富士山の歴史 相州寒川神社について 

 富士山関係資料

【寒川神社】

社伝によれば、祭神は寒川比古命・寒川比女命で、奈良時代の神亀四年(727)の建立と伝えられる。

 伝説によれば、祖神が海上より相模国に上陸したのち、二ケ所ほどの土地にしばらく住み、そのご寒川の地に豊富な清泉を見つけて定住することになったと云う。

鎌倉期頃の編纂とされる「総国風土記残本」の相模国の部写本(文和元年・1352)に「雄略天皇の時幣帛をたまう」とある。延喜式神名帳は名神大に列している。〔神名帳は延長五年に完成して康保四年に施行(927967)したもの〕

 相州一宮としての寒川神社の社領は「相州一宮引着事」に「東石川・南荒海・酉相模河・北門沢橋切也」とあり、大きな社領を持ち、神社の前面の根岸が古相模湾の渚線であったようである。つまり古相模湾は地質時代末期(縄文期頃まで)ころには上流の厚木依知辺りまで入り海であったが、大砂丘が形成されると共に沼沢化か進み、弥生期に

 はかなり進んで、寒川から茅ケ崎・藤沢に亘る背後の砂丘地帯、平塚の真土砂丘が作られて、古相模湾も小さくなったようである。

 寒川社の社地は宮口・宮原・宮山・岡田などで、相模川の支流の小出川や目久尻川の中間地にあり、本殿の裏には湧泉池がある。最近はかなり小さくなっているが、応時は豊かであったと伝える。尚、小出川の上流の小丘・二俣上の打戻には、養蚕の神を祭る宇都母知社がある。

【神社の宮社制度(国幣制)】 

神社の宮社制度(国幣制)は八世紀の奈良時代〔類聚国史には延喜十七年(798)とある〕に始まる。では相模国一宮寒川神社の祭神は誰なのか、との推理は色々なされているが、伝説の中の日本武尊にまつわる人物で、尊の父景行天皇の子成務天皇の時「茅武彦、武蔵国造の祖兄多毛比と同祖」とある人ではないかと云う。相模は相武と書くが、

成務天皇の世に国造に任命され、敦代はこの付近に居住していたのではとする。その後国造勢力は西に移勤し、この時初代が合祁されて寒川大神とされたと考える人もいる。

 寒川神社の起源は明らかではないが、寒は古語のサムで清いこと、神聖の意味であるから、古体を具えた農耕を祭った社であることは、間違いはなかろう。太古は湧泉の周りに集落を形成し、ついで小河川の辺に農耕を起こした。その近くの神聖な所に神を祭った。その起源は泉や山・岩石などを対象にしたもので、大部分は古墳時代に始まったと考えられるが、中にはそれ以前に有るものも有りそうである。寒川にある寒川大神鎮墓と伝える前方後円墳は大神塚(応神塚とも)が在り、小円墳を伴っている。大神塚は中期古墳に属するらしい。

 神社には「寒川神社日記」が伝えられており、これによると

◇ 平安時代 仁明二年(835

(寒川付近の)相桶川に浮橋を架ける。とあり

◇ 鎌倉時代 建久二年(1191)寒川社の浜降祭始まる。

◇      建久九年(1198)稲毛重成、相桶川に架橋。翌正治元年一月、源頼朝は橋脚供養に臨み、帰って病死。落馬と云う。この故事より馬入川の名がはじまる。〔桂川一鮎川一相桶川一馬入川〕

 古相模湾は次第に河口の方へと狭まっていったが、まだかなり奥まで海が進入していたらしい。中世の鎌倉時代には湘南海岸に近い所まで架橋可能なくらいまでになったと考えられる。大化の改新により相武国と師長国が統合されて相模国となり、これと共に国府も時代が下るに従い西に移った。その確かな年代は分からない。国府が移されてからの平安末期、総社(惣社)の制がとられて、国男に近い宮社または神社に合祭(名神)するか、一社を新たに建て総社にした。これが大磯の国府本郷の六所神社(郷社)である。例年六月廿一日国府祭に六所の神社の神輿が神揃山に集まり、神事をとり行った。

昔、寒川社の神輿が帰途に馬大川を途河中、大水で舟が転覆して行方不明になったがその後、神輿は七月十五日に茅ケ崎の南湖の海辺に流れ寄り、漁師に発見されて神社に戻された。江戸後期の事であると云う。このため寒川社は謝礼のため茅ケ崎の海辺で浜降祭をする事になった。

 相横川は平安時代より江戸期に到るまで、橋を架けては流されるなどのことを繰り返したが、寛永七年(1630)に渡船となった。これは中世以来、湾口の砂州の裏に良港柳島(茅ケ崎側)があり、柳島の湊として賑わっていた。元禄四年(1691)廻船をめぐる柳島と対岸の平塚の須賀と湊争いが起きて、柳島が勝訴し廻船を預かる事に決した。今日ではその面影も見られない。相模国府は今の処考えられている所は、海老名、伊勢原の比々多、大磯の国府である。

【富士山噴火】

 寒川神社日記には富士山の噴火についての記述もある。

  平安時代 天長三年(826)富士山神火

貞観十二年(870)富士山噴火

  富士古文書(宮下文書)には

 延暦十九年(800)富士山の大噴火で大半埋没する。浅間神社を相模国高座郡寒川に移して寒川神社とする。(要約)

としているが、整合性があるのかなどは不明である。

【古墳】

 古墳について云えば、海老名の瓢塚古墳・寒川の大神塚古墳・平塚真土の大塚山古墳など前方後円墳は50mを越すもので、真土大塚山古墳は70~80mにおよび、長径60mの五世紀初頭と考えられている前期古墳である。副葬品には鏡・刀・銅ぞく・巴形銅器などがあり、特に「陳是作意甚大好 上有王父母 左有倉竜 右白虎 宥遠道相

保』の銘文がある「三角縁神獣鏡」が出土し、京都椿井の大塚山古墳、岡山の車塚古墳や、川崎の南加瀬白山古墳と同様の物とされる。(銅はん鏡)海老名の瓢箪山(国造)古墳は長さ五50~60m・巾約6m・高さ6~7mある。

 大神塚(応神塚)古墳は明治44年に坪井正五郎博士によって調査されており、石郭は無く、副葬品に漢鏡一個・直刀破片・鉄片数個が出土。小型陪塚からは石郭・人骨に歯・勾玉・管玉・瑠璃玉・金銀環・直刀・鉄ぞく・小柄・他が出土し、これによって大化直前の築造ではないかと推定している。

 尚、平塚新宿の八幡神社古墳は墳丘百米に及ぶ。巾は20~30m、高さは5~7mあり、本殿背後がそれで、東西にー基づつある。また海老名近くには上今泉の秋葉山古墳は三基あり、それぞれ50m前後である。師長国については東海道古道でふれる事にするが、「国造本紀」に成務天皇の時、オオワシオミを任命したとある。〔大鷲臣命〕

余綾部に足下郡の内、酒匂川以東の台地が国の範囲であろうとする説がなされている。

古墳は下足柄部千代村(現小田原市域)に小前方後円墳が三基ある。延喜式には「川匂神社一座」とあり、祭神一往(級津彦命)社伝では「重仁朝に阿屋葉造が初めて川匂神を祭る」とあり、『日本地理志料』の機長郷は「国府申、前川・羽根尾・中村原・上町・小船・小竹・沼代の数邑を成田荘と称す。いま足下部に隷す、あるいはその域か」と云う。「川匂神社」については、余綾部(余呂伎)にあり。つまり二宮町山西に南向きに社殿をしつらえる。社殿の北方の宮上が旧社地である。祭神は今日大名牟遅命・大物忌命・級津彦命・級津姫命の四往だが、「新編相国風土記稿」には衣通姫命・大物忌命・級津彦命とあって、大名牟遅命・級津姫命は後世の祀りである。

 「社伝」によると「級津彦命は師長国を始めて開いた」とあり、衣通姫命は「允恭天皇の妃で皇子を産む時、当社に奉幣祈願された」と云う。川匂社は級長国造が祭祀したものであるらしい。これは衣通姫命の出産で天皇が、国々の国造に命じて御名代に藤原部を置いた事から、この付近に藤原部が置かれたのであろう。

【相模国】

相模国であるが「延喜式格・民部式」には上国、足上・足下・余綾・大住・愛甲・高座・鎌倉・御浦の八部で構成されていた。この式が施行されたときは津久井郡は無かったらしい。甲斐と相模の国界争いに、延暦の富士噴火直前、延暦十六年(797)に朝廷の裁定で確定したが、甲斐国の部の構成は延喜式では山梨・八代・巨麻・都留の四部、相模国の津久井の名が登場するのは、鎌倉時代の吾妻鏡外に「津久井県」である。恐らく延暦以前から「県」が愛甲郡の中に存在していたのであろうし、大化の改新によって相武国と師長国が統合されて相模国と成ったころは、都留郡と津久井県は入り組んでいたのだろう。あるいは都留部も「県」であったかも知れない。それが奈良時代都留の郡と代わったものか、「古風土記逸文」に「都留の郡」名が見られる。従って都留郡は小さな範囲を指していたものが、時代が下って奈良時代の末ころには、富士山の北麗あたりまで含まれるようになったものであろう。

 津久井の県は相模国国分寺建立に関与し、瓦が津久井の窯で焼かれている。この国分寺の創建は天平期の東大寺式伽藍配置ではなく、これ以前の法隆寺式伽藍配置で、全国の国分寺中で唯一のもの。その成立年代は不明である。恐らく渡来人が関与していたのではないかとする説、以前に在った私寺を元にしたとする説などがある。

 海老名に国府が在ったと云う記録はない。寒川神社がいつ創建されたかも不明であるが、東海道古道が寒川の地を通過して、三浦(御浦)の走水に至るルートは、日本武尊の伝承からも知られる。古代の相模国府が海老名に在り、寒川の地が重要視されていたのは何故か、恐らく相模中央の平野郎は奈良時代にも海が寒川付近まで入り込み、鮎川(相模川)河口部にあたり、伊勢原・厚木・平塚を囲む平地の多くは沼沢地で、それほど開拓は進んではいなかったと見られる。また海老名と寒川の立地を見ると、相模台地の末端部に在って、低位段丘と自然堤防が近接し、相模野台地の裾の幅広く長い谷地があり、農地開拓には都合の良い所であった。前出の通り海老名周辺には国造古墳や秋葉山古墳(三基)寒川には大神塚古墳などがある。

 延暦21年(802)富士山の噴火で足柄路が埋没し、その五月には呂荷道が拓かれ、八月には相模の百姓に噴火降灰による指田分の租税が免じられ、翌九月には駿河・伊豆・甲斐・武蔵の国が災害地に指定され、さらに相・武・甲・駿の百姓や没落浮浪人を、関東の浪人と共に4千人を、陸奥胆沢城に配置したのである。この事業は以後も続いた。

 弘仁9年(818)七月、関東に大地震が襲った。この地震は「山を崩し、谷を埋め、圧死する百姓は数うるを得ず」と云う有り様で一年の租庸調を免じ、国費で百姓・夷を問わず救済がなされた。翌10年2月、相模国分寺(金光明寺)が焼亡し、11年2月には遠・敬二国の新証人7百人叛して人民を殺生、屋舎を焼いて伊豆国に押し入り、国府の穀物を奪って船で海上に逃走する事件が起きた。相武外七ケ国の軍は追撃してこれを捕らえて終わったが、大河渡渉で難渋したことから、承和13年(835)6月、鮎川(相模川)・富士川などへ、渡河の便に浮橋を架けることになった。

 これより前の延暦11年(792)政府は兵士の制を止めて軍団を解体した。これに伴い地方豪族や将吏は自己の子弟を健児として出すことになり、権力者たちは私腹を肥やす者も多くなり、加えて百姓には租税の増量などで、班田放棄の抵抗で対抗した。政府は荒廃田を防ぐため、国司・郡司外これに連なる豪族らに荒廃田を管理させること

にしたのである。

 こうした事からであろうか、集落の中核である神社おも官社として取り込み、承和13年(846)寒河神に従五位下、元康八年(884)寒河神に正四位、海老名の河原口・有鹿神を従五位上に昇進させ、夷参(座間)入谷の石栃尾神に従五位下に進めて官社にしたのである。

 この三社の立地を見ると、寒川・宮山と河原口は相模川の自然堤防上に構成され、座間(伊參とも)入谷は低位段丘下に位置し、特に宮山は低位段丘と自然堤防が近接しており、相模野の台地の裾をなす谷地が発達する所であり、肥沃な地であった。従って富裕度は他を抜いていたのである。

 貞観15年(873)7月、寒川の漢河寺が相模国分尼寺となった、財力がものを言ったのであろうか。尚、寒川山医王寺は承和元年(834)の創建である。

 元康二年(873)九月、関東を襲った大地震は「余震五六日続き、百姓の死ぬもの数しれず、地はくぼみ、往還は不通」の有り様で、漢河寺も大破し、国府は火柱郡に移転を決めた。寒川神社日記の富士山の噴火記録は〔天長三年(826)と貞観十二年(870)〕何を物語っているのであろうか……。






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最終更新日  2021年07月31日 05時59分03秒
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