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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2021年08月08日
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甲州台ケ原宿と教来石宿が生んだ俳人

 

北原臺眠・塚原圃秋・河西素柳

 

  北原臺眠

臺眠は現在の白州町の台ケ原集落(合併により北杜市白州町台ケ原となる)の生んだ俳 人であり、当時の著名俳人とも交流が深く、それは伝えられる以上のものがある。北原家は江戸時代の寛延二年(1749)頃、信濃の高遠から移住して造酒屋を営んだのにはじまり、(「家譜」/村役人連署「差上申済御証文之事」)現在山梨名醸として現在に至っている。

家の作りも抜きん出ていて、切妻中二階式の大型町屋で山梨県教育委員会の発行している『山梨県の民家』に詳しく報告されている。幕末には信濃諏訪高島藩の御用商人となり、窮乏する高島藩の為に千六百二十五両を用立てた証文を蔵して居られる。

また長野県の『富士見町誌』には産米を北原伊兵衛宅に納めた記録が残っている。

天保十二年の家の古図によれば醤油の醸造、明治には北原銀行も開設している。また中の間と書院境の彫刻欄間の主題は「竹林七賢」で立川流の名工立川富種の作で諏訪高島藩 主より贈られたと伝えられている。

先の『山梨県の民家』では、「全国的に見ても第一級の幕末大型町屋といってよい」と絶賛している。

また山梨名醸の造酒「七賢」は山梨県を代表する銘柄であり、蔵出しを始め多くの愛好者が訪れていて、休息や食事もできる「台眠」も人気がある。今回はこの「臺眠」についての調査報告である。

 

台ケ原 臺珉

諸書に伝えられる台(臺)眠・臺珉 たいみん・だいみん

1、『峡中俳家列傳』

(『甲斐史料集成』第十一巻所収 明治三十八年刊)

 

北巨摩郡菅原村の臺ケ原と云ふ處に北原仁と云ふ酒造家がある。其の七代前の遠祖に通 稱伊兵衛、諱は延辰と云ふ人があった。嵐外(辻氏)に就て俳諧を學び號を臺眠と稱した。師弟の情が最も濃やかであったから嵐外は閑暇があれば常に臺眠の下に遊びに行って居た。夫れで嵐外が常に携へて居た如意を記念の為に此家へ留めて置いたが、其れが臺眠手より他の手へ、他の手よりまた他の手へ幾變轉した末に、當時峡中詩壇の飛将軍たる狩穂の舎主人小澤眼石翁に傳はったのである。

文政十三年(1830・天保元年十二月十日改元)不惑を超ふる事僅に一歳(41才)にして逝かれた。龍福寺畔荘嚴なる碑石が此の人の永眠の地に建てられてあるが、此の碑石は実に永遠に此の人の俳名と其の富豪とを語るべき不文の歴史であらう。それで此の人の作として傳はれるものは実に左の數句に過ないのである。

 

目の及ぶだけを櫻の曇り哉

時鳥引返そふか筑波山

暮るゝほど心こもるぞ菫草

山里や包むもの無き冬の月

 

《筆註》一部記載違いがあるがここでは省く。

 

2、『甲州俳人傳』 (昭和七年四月刊。功刀亀内著)

北原臺眠

 

北巨摩郡菅原村(白州町)臺ケ原の人。通称伊兵衛延辰。雪亭葛里の教で俳諧を学び、その門下高弟の一人なり。又辻嵐外と交遊浅からず、峡北の巨匠なり。瀧亭臺眠と号す。文政十三年 正月七日歿す。同村龍福寺に葬る。

著書 母布奈比鳥一冊。寛政十一年八月刊行。五味可都里序文

 

《筆註》この亀内の『甲州俳人伝』は現在も『甲州文庫』と共に引用される書であるが、多少の間違いもある。

 

3、臺眠の俳歴(附、近隣俳人消息)

 

天明五年(1785)臺眠 三十八歳

《『春秋稿 五篇』 白雄撰 天明五年(1785)の項》

旧題懐旧

行鹿や茜さす野の露を負       甲州台ケ原 臺珉

朝日にもふるゝこよひのさくら哉   かひの台ケ原 黒沢

衣がへ身の垢をだにすてごゝろ    甲斐暮地 琴水

《『春秋稿 五篇』天 白雄撰 天明五年(1785)の項》

 

《筆註》

白雄-加舎吉春。通称五郎吉。

元文三年(1738)江戸深川に生まれる。

寛政三年(1791)歿。年五十四歳。

 

信州上田藩士加舎源太吉重の弟。『春秋稿』-明和年間信州に滞在、安永三年に江戸に帰り、日本橋鉄砲町に春秋庵を開いて、安永九年(1780)に『春秋稿』の初版を出して、第五編天明五年(1785)まで続刊。

安永四年(1775)から五年春にかけて甲斐に滞在し、大月初狩で芭蕉碑を建立、『甲峡記行』を著している。

 

天明六年(1786) ▽  臺眠  三十九歳

《『葛の葉表』白雄の弟子、中村伯先撰 天明六年(1786)の項》

『舎良白雄全集』所収』

 

里童ぬれありく見ゆ花の寺      甲州台ケ原  台眠

ひかるゝやあるじをしらぬ梅の宿   甲州さし出磯 閨歌

雪おれの竹にかくれて梅の花     甲州さし出磯 春路

春雨や湯豆腐いまだに捨られず    甲州石和   高牛

もの寒きなさけにや降はるの雨    甲州藤田   黒沢

庵木には倦ともあかぬ柳哉      甲州     敲氷

水に落ちからに重き椿かな      甲斐の暮地   井

菴に落る椿の音の聞くらす      甲州さし出磯 石牙

松の風きくを子の日のあそび哉    甲州さし出磯 百朶

志ばらくは梵誦も笠ぬげ花の影    甲州さし出磯 何鳥

夜ざくらや酒うる家の遠あかり    甲州さし出磯 長古

鐘の音も和らかにひるの桜哉     甲州さし出磯 如洗

とふ人にまつはる見ゆ藤の花     甲州韮崎  巴本

(以下、地域関係俳人のみ)

 

天明八年(1788) 臺眠  四十一歳

《『農男』可都里撰 天明八年(1788)刊行》

県立図書館蔵「甲州文庫史料所収」

 

葉さくらや水の底なる薄みどり    台ケ原 竹山

六月や聲あるうちをほとゝぎす    台ケ原 臺珉

 

《筆註》可都里

寛保三年(1743)生、~文化十四年(1817)歿。年、七十五歳。

本名、五味宗蔵・益雄。甲斐俳壇の雄。中巨摩郡藤田の生まれ。

蕪村ら当時一流の俳諧師と交遊。

蟹守

宝暦十二年(1762)生、~天保 六年(1835)歿。

年、七十四歳。本名、五味五郎左衛門。可都里の甥。可都里没後、

『諸家俳諧文集』を執筆する。

 

寛政元年(1789) 臺眠  四十二歳

《『駒墳集』 三車上人撰 天明九年(1789)頃刊行》

県立図書館蔵「甲州文庫史料所収」

《筆註》

現在の勝沼町等々力万福寺境内に芭蕉句碑建立した時の句集。

半化坊闌更の序文が見える。闌更は寛政十年に没しているので、『駒墳集』の序はそれ以前となり、ここでは天明九年の項に入れた。

(『長野俳人大辞典』「出典資料一覧」には天明五年刊か?とある)

 

かれ草に風のなき日となりにけり   台ケ原 臺珉

目のおよふたけを桜の曇りかな    台ケ原 臺珉

ひな鶴峠を越るほと

山中やいつかいつまで鹿の聲     台ケ原 臺珉

ちいさいは女の業か雪丸け      教来石 甫秋

 

《筆註》 塚原圃秋の初出(筆者の資料から)

 

寛政五年(1793) 臺眠  四十六歳

《『花供養』 闌更撰。 寛政 五年(1793)》

(池原錬昌氏紹介『甲斐の俳壇と芭蕉の研究』)

 

折さしと火のとほれり夜の花 台ケ原 臺眠

 

《筆註》臺眠は、俳号臺眠と臺珉(玉に似た一種の宝石)を使い分ける。

 

寛政七年(1795) 臺眠  四十八歳

《『花供養』 闌更撰。寛政 七年(1795)》

池原錬昌氏紹介『甲斐の俳壇と芭蕉の研究』

 

日つもりや見尽しかたき雨の花  台ケ原  臺眠

 

寛政八年(1796) 臺眠  四十九歳

台眠の編んだ句集

《『ななし鳥』可都里撰 寛政 八年(1796)著》県立図書館蔵「甲州文庫史料所収」

 

山里や包むものなき冬の月    臺珉

 

連句歌仙

連衆-闌更・祥夷・可都里・鱒魚・美敬・臺珉・樗冠・菊丸など

《筆註》

後、文政十二年に甥蟹守の編した『可都里連句集』に『にふなひ鳥』の連句歌仙が見える。

○闌更……享保十一年(1726)生~寛政十年(1798)歿。七十三歳。

本姓、高桑氏。通称、釣瓶屋長治郎。加賀金沢の人。

天明六年(1786)以後、毎年芭蕉追悼の法会を催して『花供養』を編集   在世中に十二冊を刊行した。

 

寛政 十年(1798)

臺眠 五十一歳 (伊兵衛延辰、10歳)

《『霜夜ほとけ』 寛政 十年(1798)刊行》

 

日最中の蝶くるひ込関屋哉    教来石 甫秋

 

《筆註》

この寛政十年十一月四日、教来石村(塚原甫秋と同郷)の風次亭(河西家)に於ける、素明居士(不詳)の十七回忌法筵につらなり、漫々・台眠・可都里らと追福の吟を手向けている。として、

相見ぬ人の追福に備ふ

しらぬ世をこほりかへすか夜の雨    雲水 嵐外

(その他の句は不詳)

 

《筆註》

翌年の臺眠の『にふなひ鳥』には、臺眠・盛徳・可都里・花仏・甫秋・柳紅らとの歌仙、臺眠・可都里・嵐外の三吟半歌仙が収められている。

…(清水茂夫氏著、『山梨大学学芸部研究報告』「辻嵐外の研究」より)

 

 

嵐外書簡…北原家蔵。(清水昭三氏著『俳風韮崎宿の哀歌』紹介)

 

かねてお約束いたし参りつもりの処いかなる事にや、

りん病さしおこし御役にもたち不申、

しかし柳町三丁目大神宮へ祈願いたし候まゝ

大かた今晩あたりハ倅も用立可申と、

存じ候へばかならず今晩は手入をいたし云々

 

《筆註》

手紙の内容は甲府柳町のその道の女性に宛てたものである。

放蕩家嵐外の面目躍如の内容である。

 

臺眠の名が見える書簡

 

《筆註》高桑闌更(1726~1789)が上諏訪の俳人、藤森 文輔(曾良庵/1712~1801)に宛てた手紙で、池原錬昌の『甲斐俳壇と芭蕉の研究』に紹介されている。年次は不詳であるが、闌更の没年が寛政十年であるので、ここに掲載する。

 

闌更    文輔様

 

朶翰愈々御安康致至祝申候幣居無別事中ゝ老衰にや

今夏割り書き者横身かちにして萬事遅々御疎遠ニ暮申候。

翁剃髪之事処々より申来候間分かね申候。

心ゝ外連へ御別紙懸御目候得とも先進而に御座候。

さたなきやうに候ハハひそかに可進候。

披露もならぬ事筆も多くハ人たのミニ候にて

甲斐なき事と被存知候ハハかさねて処々へ分け候まてハ

御持可被成候。

然者勧化物とハ例の講銭の事に候や間違御座候や。

成美よりいまた受取不申候かれか別葉御届申候。

以後行脚の者に用書御伝御無用に候。

分沼なともいまた講銭きたり不申草堂へ直便に届候様にたのミ入候。

堂藁ふき間もなきに朽申候まゝかかるものにて暮替可致候。

まゝ臺眠なともそのかたへ集被遣可被下このかたへ

ハ一向ととき不申候。

 

芭蕉堂日日繁栄額聨なとも出来会も御座候。

且御作も不絶承度候。家中御連へも能御達奉頼候。不具 九月十五日

《筆註》

藤森文輔-正徳三年(1713)生~享和二年(1802)歿。年89歳。諏訪市門間の人で、別号曾良庵、または左右房と言った。

本名は藤森喜右衛門。屋号、和泉屋。家業は紺屋。

壮年頃江戸に出、菊岡沾涼、後加藤暁台に、京都の高桑闌更に師事した。

 

寛政十一年(1799) 臺眠 五十二歳

《『にふなひ鳥』瀧亭臺 撰 寛政十一年(1799)刊行》

(この句集は、『可都里連句集』に載る)

 

可都里序文(ここでは省略)

 

霍公鳥むら雨かゝる遠音哉    臺眠

 

寛政十二年(1800) 臺眠 五十三歳

 

《『さきつる』可都里撰 寛政十二年(1800)刊行》

 

うぐひすを長う鳴する朝寝哉    甲斐 臺眠

 

《『ななし鳥』可都里撰 寛政十二年(1800)今井漁莚写》(前掲)

 

………この年以後に臺眠の名は見えなくなる………

これ以後居峡北地方の俳壇は下教来石の甫秋が中心となる。

 

《『鶴芝』「初編」舎良士朗撰 享和 元年(1801)刊行》

日最中の蝶狂ひ込関屋かな    カヒ 甫秋

花に泣ば又もや姥は捨られん      士朗

味噌豆の煮るうちよりは春は行     嵐外

こまごまと雨もふらぬか今朝の秋    漫々

名月や何処にどうして杜右       可都里

いつとても相図の笛を腰にさし     蟹守

連句歌仙

甲斐の可都里の沙汰として蟹守をさしこして

予が諏訪のやどりをとはれければ

哀れさやおなじ旅寝の子規        士朗

湖の月夜は夏にぞありける        蟹守

住みなれる間々の藪刈て         素檗

(以下省略)

 

《『続ゆきまるげ』 素檗撰 文化 四年(1807)刊行》

『藤森素檗全集』所収。可都里序文。

 

みそさゞい佛の日より来初けり      カヒ 甫秋

 

参考資料 文化四年(1807)四月 台ケ原宿 北原伊兵衛

《実相寺(武川村)》南無妙法蓮華経 二千部供養

文化四年丁宇弥生吉日 願主 台ケ原宿 北原伊兵衛

 

文化七年(1810)

《『続草枕』 素檗撰 文化七年(1810)刊行》 『藤森素檗全集』所収。

 

鶯のよく聞へたる枯枝かな    カヒ 甫秋

 

文化十四年(1817)

●可都里-歿。文化十四年(1817)歿。年75歳。

《『花の跡』 蟹守撰 文政 元年(1818)刊行》

可都里の一周忌追善集。蟹守は可都里の甥。

《『可都里連句集 蟹守撰 文政十二年(1829)刊行》






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最終更新日  2021年08月08日 06時52分13秒
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