山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/09/10(金)08:40

松平美濃守吉保 和漢 〘甲斐国志〙

柳沢吉保 山梨北杜資料室(59)

松平美濃守吉保 和漢 〘甲斐国志〙松平美濃守吉保の肖像狩野養朴什物あり上に吉保自著する歌二首是は名所百首詠ぜし頃仙洞献覧即長点賜へる歌なりとぞ 嵐ふく生駒のやまの秋の雲 曇りははれて月そ更行    少将吉保 朝日かけさらす手つくり露ちりて 垣根にみたす玉川の里 侍従吉里(宝永八年二月弐五日当寺にて詠歌)甲府市御岳村(黒平)蔵王権現 奉納歌『甲斐国志』所収甲斐守保光(柳沢吉保)和州郡山御岳やま雲もさくらにうつもれて  ひとつににほひ霞む春か勢  長坂町大八田 八幡宮 奉納歌『甲斐国志』所収  源吉里(柳沢吉里)八幡山神の光とあふくなり霞みをわけていつる日のかけ 甲府市一蓮寺奉納短冊『甲斐国志』所収      宝永八年二月二十五日、当寺にて詠歌池水のすめる心の長閑さを    問はゝ千年の松やこたへん 名所山(懐紙一蓮寺所蔵)松平甲斐守吉里ちりひちのいつの世よりか積りきて    いや高き山はふじのね勝沼 柏尾山大善寺奉納 水晶念珠一聯 『甲斐国志』所収寄付也寛政中松平甲斐守当寺に詣し懇望さるるに依りて之を贈る。和歌一首を詠じて謝せらる。藩臣九城部次兵衛、吉田権十郎をして添書致意せしむ法性院とののもたまへる念珠をゆつり         きこえるかしこさを謝す 保光かすかすに念の珠をくりかえし    むかしを今になほあふかなむ   宝永三年松平美濃守の子息伊織・左門両人より二十五カ所の祈願所へ米五十俵配分老臣の連署一章、寛永十九年の御朱印以後代々奉頂戴云々塩山乾徳山恵林寺『甲斐国志』所収 柳沢家関係記載事項一、宝永二年信玄公百回三十三回に当たれる折柄、松平美濃守吉保本州に封せられ参詣して和歌を詠ず百あまり三十三年の夢の山     かひありてけふとふ嬉しき二、保山の麗屋に安置する所の夫婦の像は法橋淨慶の彫刻せり。享保九年和州郡山へ得替に依りて龍崋山永  慶寺を廃し当寺に改葬して遍置く所なり、寺後に信玄の石塔あり。武田信実、荻原常陸守、荻原豊前守、  大村伊賀守、尾幡景賢等の石塔相列し、保山の石塔もあり云々 庭園は(略)松平甲斐守の時に増築せしと云う頗る美観なり云々。三、黒糸威鎧一領(妙珍作)保山の寄せる所也、水晶舎利宝塔一基(和州法隆寺の分身仏と云う)四、享保中勅許甲府和歌八景の巻軸(松平吉里の寄する所)山梨の岡の館と詠めり岡新樹 宝永八年八幡宮奉納三十首の一      侍従 吉里しけりそふ色も若葉の山梨の岡の屋形の梢さかえむ宝永三年八月十五日 八幡宮奉納百首の中 立春今朝明て春立空の甲斐かねや去年の深雪も霞みむらし吉保公 甲斐国志 覚書甲府塩部 八幡宮 『甲斐国志』巻の五十五 神社部第一 山梨郡  松平美濃守吉保、甲斐守吉里両代の祈願書ら多数あり云々 甲府愛宕町 宝蔵院 『甲斐国志』巻の七十三 仏寺第一 府中  松平美濃守様祈祷の文書を併蔵む。 甲府元紺屋町 真如山華光院 『甲斐国志』巻の七十三 仏寺第一 府中  毘沙門堂 堂は方九尺なり、立像作者知らず 松平甲斐守の所崇信本在城内得替の時当寺に贈れりと 甲府万年山大泉寺 『甲斐国志』巻の七十三 仏寺第一 府中  (略)松平美濃守領地の時も二十五カ所の祈願書にて、米拾俵毎年之を贈る。宝永六年正月より隔年に登城拝賀する。並びに安永九年に乗輿を免さる仏殿(九間半)。此の堂は松平甲斐守所経営永慶寺毀取の時当寺に授くと云う。 松本山大蔵寺 『甲斐国志』巻の七十四 仏寺第一 山梨郡万力筋  大般若経全部(享保三年九月甲斐守吉里の寄付なり、毎年正月に当城にて転読すべき趣の文書あり)吉保公 和歌甲斐の国に封ぜられし時立春めぐみあれや君につかふるかひがねの 雪のふる道いまも踏みて空さえし雲はかすみにたちかえて あけゆく春のひかりのどけき首夏山はみな若葉にかへて夏木だち きのふの花はちりものこらず八幡宮に詣でてみなもとの神のめぐみとしるよしの かひあるをなほいのるゆくすゑ歳暮なにごとをなすともなきを年の緒の くるる一夜におどろかれけり龍華山永慶寺『甲斐国志』巻の四十五 古跡部第八 山梨郡北山筋 一部加筆廃龍華山永慶寺(岩窪村)村ノ東、信玄火葬場ノ間ナリ、今尽ク陸田トナル、宝永中松平美濃守吉保創立シテ濤蔵ノ所トナス。山城国宇治黄蘗山万福寺ニ準擬シ、七堂迦藍荘厳美麗ナリ(金堂、法堂、天皇殿、鼓楼、祖師堂、鐘楼堂、禅説堂、開山堂、華厳堂、僧坊、浴室、惣門等アリシト云ウ、宝永三成年、吉保親ヲ所製碑文(全文附録ニ載ス)ヲ按ズルニ姶扁シテ曰ク、穏々山霊台寺蓋取諸雲岩老師之所授誠也、故推雲岩老師為開山第一祖トアレバ悦峰道章ヲ請シテ三祖ニ居シムナラン、 (徂徠集ニ田省吾奉命護医悦峯西帰対二章アリ西帰ノ年ヲ不知)松本大蔵寺ニ礼閻浮壇金弥勒像偽併序一章ヲ蔵ム、巻尾ニ黄蘗龍華天麟仁敬稿書永慶精舎文中ニ庚寅仲秋トアレバ、宝永七年ニ当ル、此頃仁敬ハ住職第三世ニ配セシト見ユ、寺山号改ム故ヲ知ラズ、宝永七年、甲斐守ノ賜ヘル寺領証文ノ写シ或人蔵附ニ見ユ、保山公於甲斐国山梨郡岩窪村創立禅寺号龍華山永慶寺令掲大光普照国師法燈定当家之菩提所トシ、岩窪村・下積翠寺村・日影村ノ内都合三百七拾石之地(目録在別託)寄附之訖全可被領納之往年達事之由、于常憲大君(綱吉)之台聴準シ、古跡永不可断絶之旨蒙合許、宝永乙酉(二年)八月廿一日於江戸営中老臣列座之節、伝達台旨令記載于寺社奉行職常帳簿畢又更ニ以験記如件宝永七(庚寅)年八月、国主吉里印永慶方丈へトアリ(一書五百三拾石五斗弐升五合、真光院料共ニトアリ、真光ハ保山内室ノ法号ナリ塔頭ニ別院アリ)子院三曰く、真光日霊樹曰理性、正徳五乙末十一月二日吉保逝去ス、牌子ニ、永慶寺殿前濃州太守甲陽卿羽林次将山源着大居士 夫人ノ牌ニ、真光 院殿海月映珊大姉 トアリ、享保九辰年甲斐守和州郡山得替エノ時遽ニ当寺ヲ毀チ、保山夫婦ノ石塔肖像ヲ恵林寺へ遷シテ改葬ス、堂塔門ハ府内其外ノ諸寺へ頒チ与へシ由今ニ存在スルモ多シ、新寺タルヲ以如斯上京州人相伝へ言、吉里国替ヘノ台命ヲ蒙リシハ、三月十一日、去ル天正壬午勝頼ノ忌日ニ当レリ、永慶寺ヲ毀シハ四月二日、織田家ノ兵士乱妨シテ慧林寺ヲ焼タリシ日也、保山ノ改葬ハ四月十二日、信玄ノ忌日也、如何ナレバ刻日三件マデ符合セシ事ヤラン、時人言アヘリトゾ。      龍華秋月(享保中勅許八景)武者小路宰相 実陰卿名にしおはゝ嶺なる秋の月やしるそのあかつきの花の光も【追記】甲斐国志 樹木屋敷 松平美濃守領分の時樹木屋敷と名付け、奇樹珍菓を数多植え壮観とせり云々。

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