山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

2021/11/02(火)18:41

日本一長い武田信玄の遺言

武田信玄資料室(51)

​​武田信玄の死 「甲陽軍艦」品三十九(参考資料「甲陽軍艦」吉田豊氏著 昭和46年刊) 1、 四月十一日未の刻(午後一時ころ)から、信玄公はご容態が悪化し、脈がだいぶ早くなる。2、 十二日夜、亥の刻(午後九時ごろ)には、お口の中にできものができ、歯が五、六本抜ける。3、 次第に衰弱。4、 死脈をうつ状態となられた信玄公は死を覚悟。5、 譜代の家老たち、配下を持つ全家臣を召し仰せられた。6、 六年前、駿河へ出陣の前に、板坂法印が自分には、「膈」という病気があるとのこと。この病気は、思慮を重ね、心労が積もったがためになるものだという。7、 信玄が、若いころから弓矢を取って、現在、おそらくは日本一すぐれているというのはなぜか。8、 諸国の大名たちも、それぞれ武勇のほまれがあるとはいえ、いずれも他国の大将と力になり合って、両軍が協力することによって勝利を得るもの。9、 もっぱら武勇だけをたよりとして、勇名をとどろかすもの。10、または多くの国を治めて大身とたりながらも、他国武将の勝利に恐れをなして、未子を人質に出そうとするものなどがいる。(中略)11、信長と家康は、互いに助け合って勝利を重ねてはきたが、信長は、包囲した城のかこみを解き、味方を捨てて退くなど、引き際に醜態を示したことがたびたびある。しかも一向一撰を敵として、家康がいなければならない状態である。12、家康にせよ、小身な未熟者に過ぎない。13、また北国には輝虎、中国九州には毛利元就にまさる大将はいない。14、信長、家康、輝虎、元就の四人にまさる武将は、日本国中はおろか、大唐にさえおらぬ。15、ところが、この四武将と比較して信玄は、若いときから他国の大将にたよって出馬を願い、連合して戦ったことは一度もないまた包閉した城のかこみを解いて退いたこともない。16、味方の城を一つとして敵に奪われたこともない。甲州国内には城をかまえて用心する必要もなく、館はただの屋敷がまえですませてきた。17、ある人が信玄公のお歌として伝えている。「人は城人は石垣人は堀情は味方讎(あだ)は敵なり」18、「敵国で五十日にわたって作戦を行ない、味方の領地へは通賂もない状態のもとで侵掠を重ね、小田原まで攻めこんだうえ、帰途に合戦を行なって勝利を得ている。19、去年の三方ケ原の合戦においては、信長と家康が連合し、十四カ国を領有しているところに攻めこみ、二、三里近くの二俣城を攻略したうえ、合戦に勝利し、遠州三州の境の刑部に、十二月二十四日から正月七日までの十四日問滞在した。20、この間、天下の主である信長からいろいろと和睦を申しいれてきたうえに、わが家臣の秋山伯者守信友を信長の婿ということにし、それを口実として末子の御坊という子供を甲府にまでよこしてきた。21、だが信玄はそれをも無視して、信長の居城、岐阜に六里のところにまで攻めかけ、一万余の部隊で出動してきた信長を、馬場美濃守信春房が、千に足らぬ兵によって一里あまり追いつめたところ、跡をも見ず岐阜に逃げこんだので、岩村の城を攻めとってしまった。22、このように信玄の武勇は、人をたよることなく、このたびも北条氏政が加勢に出るといってきても、無用と申してあるのだ。これが信玄の武門の手柄である。23、なお「信玄は五年以前から、この病気は重大なものと考えたため、判を書いた白紙が、ここに八百枚あまり用意してある、と仰せられ、長櫃から取り出させて人びとにお渡しになり、またいわれた。24、「諾方面ら書状がきたならば、この紙で返事せよ。信玄病気とはいえ、まだ存命と聞けば、他国から当家の国々へ手を出す老はあるまい。信玄の国をとろうとは夢にも思わず、信玄に困をとられぬ用心だけをするであろう。したがって、三年問は自分の死をかくして平和を保つように。25、跡つぎについては、四郎勝頼の子息・信勝が十六歳のおりに家督を譲る。26、それまでは四郎勝頼に陳代を申しつける。27、ただし勝頼に、武田累代の旗を持たせてはならない。わが風林火山の孫子の旗、将軍地蔵の旗・八幡大菩薩の旗、いずれ持たせてはならぬ。太郎信勝が十六歳で家督をつぎ、初陣のおりには一孫子の旗以外はすべて持って出陣させよ。28、勝頼はこれまでどおり大文字の小旗を持ち、29、差物・法華経の母衣(ほろ)は典厩信豊に譲渡と。30、諏訪法性の甲は勝頼が着用し、のちに信勝譲ること。31、典厩信豊、穴山信君両人は信玄が頼りにしていることゆえ、四郎を屋形のようにもり立ててもらいたい。32、また勝頼の倅で七歳となった信勝を、信玄のように重んじて、十六歳となったとき、家督に据えていただきたい。33、なお、自分の葬儀は無用である。34、遺体はいまから三年後の亥年四月十二日に、諏訪湖へ甲冑を着せて沈めてもらいたい。35、信玄の望みは天下に号令することであったが、このようなことになったからは、都に上りながらも支配を固めることができぬままで死ぬよりも、  いっそいまの状態で死ぬならば、世の人びとは、信玄は命を永らえれば都に上ったであろうにと評判してくれよう。いっそうありがたいことである。36、なんとしても信玄は、信長・家康のように幸運に恵まれた者達と戦いを重ねた爲に、一層、命を縮めてしまったものと思われる。(中略)37、次に勝頼のとるべき戦略として、まず謙信輝虎とは和議を結ぶことである。謙信は男らしい武将であるから、若い四郎を苦しめるような行ないはするまい。まして和議を結んで頼るといえば、決してそれを破るような者ではない。信玄は、大人気なくも謙信に頼るということを最後までいわなかったために和議を結べたかったのである。勝頼は必ず謙信を大切に扱って頼りとするように。謙信はそのように扱うにふさわしい人物である。38、次に、信長が侵攻してきた際には、難所に陣をはって持久戦に持ちこむならば、敵は大軍であり、遠路の戦いであるから、畿内、近江、伊勢などの部隊は疲労し、無謀な戦いをいどむであろう。その機会に一撃を加えれば、立直ることはできまい。39、家康は信玄が死んだと聞けば、駿河にまで侵入してくるであろうから、駿河の国内に引き込んでから、討ち取ることとせよ。40、小田原の北条氏政については、強引に攻めて押しつぶすことも容易であろう。氏政は、信玄が死んだと聞けば、必ずや人質をも捨てて敵となるであろうから、その覚悟をしておくように、と、ご一族や家老の人びとにいい渡された。41、次に、「弟、逍遥軒信廉は、今夜、甲府へ使に行くといって、心安い従者四人を連れ、出るふりをして従者たちを土屋右衛門尉のところに預け、明日の早暁、輿に逍遥軒を乗せ、信玄公はご病気のため甲府にご帰陣にたるといえば、信玄と逍遥軒とを見分ける者はあるまい。42、永年見てきたところ、信玄の顔をしっかりと見ることのできるものは、そのほうたちを始め居ないのであるから、逍遥軒を見た者は必ずや信玄は生きていると思うであろう。43、四郎よ、くれぐれも合戦にふけることがあってはならぬ。そして信長・家康の運の尽きることを待つことが大切なのである。44、運命を衰えさせるもの、それはわが身を飾り、贅沢に耽り、高慢に陥ること、この三つである。信玄が、信長.家康の運の尽きるのを待てというのは、同時に勝頼への注意でもあるのだ。45、その道理は、信長は信玄よりも十三歳若く、家康は二十一歳若く、謙信は九歳、氏政は十七歳若い。そのため彼らは、信玄の末路を待ちかまえていたのである。46、一方、勝頼は、謙信より十六歳、信長より十二歳、氏政より八歳、家康より四歳、 いずれよりも若いのであるから、彼らのような年長の者どもに負けぬようにし、これまでに信玄が取って渡した国々を、しっかり持ちこたえることである。そして、もしも敵どもが無理な戦いを仕かけてきたならば、わが領国の中に引き入れ、必勝の決戦をいどめ。47、そのときには信玄が使ってきた大身、小身、下々の者までが一休となって奮闘するならば、たとえ信長・家康・氏政の三人が速合してこようとも、わが勝利は疑いあるまい。48、謙信については、他の者と共謀して四郎を苦しめることはありえない。武勇においては信玄が死んだのち、謙信こそ第一人者である。49、天下を手にした信長と、武勇日本一の謙信との運命、この両人の運が尽きるのを待ち受けよ。50、四郎(勝頼)は万事についての思慮、判断、将来への見とおしについては、信玄の十倍も心するようにと仰せられ、51、ただし、敵がそのほう浄をあなどって挑んできたならば、甲斐の領内に引き入れ、耐えぬいたうえで合戦をとげるならば、大勝利を得ることができよう。決して軽率な戦さはしてはならない。 と、馬場美濃守、内藤修理、山県昌景にくわしくご指示なされた。52、そして、信玄が生きている間に、氏康父子、謙信、信長、家康、みな国を取られぬようにと用心をしていたにもかかわらず、北条は深沢・足柄地方を、家康は二俣、三河の宮崎・野田、信長は岩村.かんの・大寺・瀬戸・恵那までを信玄に取られている。53、謙信の領地だけは、こちらに奪い取ることはなかったが、高坂弾正の部隊だけの力で越後に侵入し、謙信の居城春日山から東方六十里のところまで入って放火、掠奪を働き、女子供を奪って無事に帰還したのであるから、謙信は対等というわけにはいくまい。たとえ病中とはいえ、信玄が生きている間には、わが領国に手出しをする者はおらぬはずである。三年間は深く慎むように。と、いわれて目を閉じられた。54、また山帰三郎兵衛を召され、「明日はそのほうが旗を瀬田に立てよ」と仰せられたのは、御心が乱れたためであろう。55、しかし、やがて目を開かれると、「大底は他の肌骨の好きに還す。紅粉を塗らずして自ら風流」 大意―わが不朽の生命は若々しくすこやかな人びとの肉体に伝えよう。それは少しも飾ることなく、自ら華やかにうるわしいのだから と遺作の詩句を残され、御年五十三歳にして惜しくも朝の露と消えられたのである。56、 ご家中の人びとは、ご遺言のとおりに取り計らったが、遺体を諏訪湖にお沈めすることだけは家老たちの相談によって取りやめ、三年後の四月十二目、長篠合戦の一月前に、七仏薬帥法による御葬を営んだ。57、 信玄公ご一代のご武、勇、ご勝利のほどは、三十八年の問、一度も敵に背を見せられたことがなかったことによって知られる。以上。(品第三十九)​​

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